アゴラの本格運営に期待する - 北村隆司

北村 隆司

アメリカの評論家で風刺家のアレクサンダー・ウールコットは「民主主義は機能しないと言う言葉は聞き飽きた。国民が機能させる責任を持っている政治体制が民主主義で、国民が努力しなければ、機能しないのは当たり前である。」と言う言葉を残した。成熟した民主国家の変革の大きなエネルギーが「言葉の力」にあるとすれば、「日本の政治はまだ成熟していない」と諦めず、「言葉の力」の向上に努める事は我々の義務である。


ウールコットの言葉を噛み締めながら、日本の現状に思いを致していた折も折、いよいよ4月1日からアゴラの本格運営が開始されると聞き、ニューヨークから時折「アゴラ」ベータ版に投稿させて頂いて来た者として、期待がいや増すのを覚えた。

堺屋太一元経企庁長官が2000年の経済白書の巻頭言で「インターネットの普及の最大の貢献は、社会における人と人との出会いを促進する事にある。ここで言う「出会い」は多種に亘るが、大切な事は、その基本が物財そのもの(ハード・ウエアー)でも、物財の使い方(ソフト・ウエアー)でもなく、人と人との間に立つ技術、いわゆるヒューマン・ウエアーと言う事実である。」と書いた。爾来10年を経過した現在、WIKIPEDIAの日米の質的な差でも解る通り、日本では質の高い知財の交換や説得の場所としての「ヒューマン・ウエアー」を探すのは難しい。

その時、気になるのが、日本の論議の前提条件が外国で通用しない場合が多い事だ。この間題を自分の言葉で上手に説明出来ない私は、鈴木大拙師の「物の見方 - 東洋と西洋」の一文を借りて説明して見たい。

師によれば、日本と欧米の物の見方の違いが思考法の前提条件の違いに有るとして、戦争と言う具体的な例を挙げて「欧米人は戦争を力の抗争と考える故に、力が尽きれば降参して、お互いに無益の流血を避ける。弾薬も尽きて抵抗力が無くなれば、降参する。此れは名誉の降参である。日本人の戦争は力の争いでなくて人の争いであるから、どんな事があっても降参せず自殺してしまう。其れが名誉の戦死だと言う事になる。今度の戦争で絶海の孤島に閉じ込められて、最後の一人まで死が強制せられたと言う事実は、如何に考えるべきであろうか。米軍は「特攻隊」を「自殺隊」と見た。絶海の孤島に於ける日本軍全員の討死も、米人から見ると「悠久の大義」も何もない「人の命の如何に安き事よ」と冷笑の対象になったに過ぎない。」と物の見方の根本的な違いを指摘された。

更に「日本特有の感傷的考え方と、欧米人的合理性を重視した考え方の対照を見る事が出来る。日本人は国家のため主君のためなら、敵国人の人格などは考えず、全てを国家観とか全体主義とか封建的道徳観の上から判断せんとする。『いやしくも目的が自己の利益を超越したものなら、それがためには如何なるものを手段にしても良い、道具に使って良い、犠牲に供して良い、即ち目的のために手段を選ばぬ』と言う、あるキリスト教団の信条のように考えて行くのが、大多数の日本人の論議の進め方であり、道徳観である。」と説かれた。

こういう日本特有の視野の狭い対応は、現在でも随所に見られる。たとえば、私がアゴラに投稿した「鳩山邦夫総務大臣批判」に対しては、色々な反論があったが、その殆どが、「契約書では1年間のみの雇用継続だけとなっていて、ほとんど有名無実である」云々という「オリックス不動産批判」であった。私としては、「鳩山氏の言動に見え隠れする全体主義的権力志向」を批判した心算であったが、反論された方々は、そういう「大きな問題」には触れず、私の「入札条件を無視して不動産価格だけで落札価格の不適正を取り上げる鳩山総務相は支離滅裂である」というところだけに拘った「小さな議論」に終始された。入札条件が篭脱けだと主張するのであれば、条件を設定した郵政公社や入札の監督、許可権限を持つ総務省と所轄大臣の責任を追求するのが当然で、入札に応じたオリックスを非難するのは私には的外れに聞こえて仕方がない。オリックス不動産に不正があれば、司法の問題として別次元で取り上げるのが筋である。

大臣や官僚にはアカウンタビリテイーを求めない日本国民も、高校野球の不祥事が起こると校長、部長、監督などの管理責任を厳しく追及する。場合に依っては、無関係な野球部員の甲子園出場の機会を奪う事すらある。鈴木大拙氏の言葉を借りるまでもなく、「感傷的」で、「理不尽極まれり」と言わざるを得ない。この様な不公正で感情的な価値尺度は世界には通用しない。そして、日本のマスコミは概ねこういう傾向を助長している。一般日本人が感傷的論議を好むとしても、日本のマスコミがこのように論理も倫理も持たないということは笑い事では済まされない。

これから始まるG20経済サミットでも、自分本位に解釈した日本的事情を前提にした議論に終始しそうな日本が、世界をリードできるとは思えない。与謝野大臣が「政界きっての政策通」と言われているような現状では尚更だ。私としては、この際、「時価評価の是非」「格付け機関のあり方」「金融派生商品の善悪と規正のあり方」「タックスへブン(便宜租税国問題)対策」「経営者報酬のあり方」「グラス・ステイーガル法の見直しの是非」等といった世界的なレベルでの論議に、日本政府としても踏み込んでほしいが、現在の日本政府や与謝野大臣にはあまり期待できない。当面は、アゴラに投稿しているような学者や経営者、一般市民の言論で、こういった問題に切りこんで頂くことに期待するしかないと思っている。

アゴラにも注文はある。論客で知的水準の高い投稿者の多いアゴラだが、論争より、敵ながらあっぱれと思える論敵も引き寄せる、説得力のある論壇になって欲しいと言う注文である。此れが実現すれば、「ADVOCACY」の習慣のない日本人にとり、アゴラの存在は益々貴重になる事は間違いない。

説得力に欠ける私は、新生アゴラの場を、「ご意見拝聴」と「お知恵拝借」の場として大いに利用する心算で張り切っている。

ニューヨークにて  北村隆司