裁判員制度について - 松本徹三

松本 徹三

岡田克敏さんの投稿を読み、「よく言ってくれた」と思いました。この記事に関して寄せられたコメントを見ると、「反論」のようなものも幾つかありますが、私は岡田さんの論点の全てに賛成です。アメリカで仕事をしていた時に、同じ職場にいた年配の女性が陪審員になっており、彼女の話を直に聞いた事がありましたが、その時に私は、直感的にこの制度には多くの問題がある事を感じました。ですから、日本にも裁判員制度が導入されると聞いて、「よせばいいのに」とは思っていたのですが、岡田さんのように掘り下げて考えることを完全に怠っていました。


岡田さんもご指摘の通り、「国民主権を司法の場でも実現する」等という言葉は、空疎な抽象論に過ぎません。そういう問題意識を持つこと自体は結構な事ですが、「その為の幾つかの具体的方策について、その得失を一つ一つ比較し、検証する」という、当然経るべき手順を踏まないままに、「一つの具体案」を簡単に法制化してしまったことは信じられないことです。

一般に、「平和」とか、「オープン」とか、「エコ」とか、「ユニバーサル・サービス」とかいう言葉がついていると、誰も反対しにくく、粗雑な提案でも簡単に通ってしまう傾向があります。今回も、政治家や官僚やジャーナリストは、「国民主権」という言葉を聞いただけで、「すんなり通してしまった方が得策」「批判してみても得るところは少ない」と考えたのでしょう。つまり、「空気」だけを読んで(KY)、深く考えもせず、決議してしまったということです。これは極めて無責任なことであり、現体制の「制度疲労」を露呈した新たな事例を、また一つ見せられたような気がします。

勿論、現在の裁判制度に、多くの人達が何となく疑念を持っている事は分かります。「裁判官とか判事とかいう職についている人達は、一般大衆とはかなり違った特殊な人達で、現実の社会通念を理解していないのではないか?」という漠然たる疑問が、その根底にあるのでしょう。或いはそういうところもあるのかもしれません。しかし、6人の無作為に選ばれた裁判員を協議に加えたところで、その問題が解決出来るとはとても思えません。岡田さんが指摘するようなマイナス面の方が、はるかに多いような気がします。

それではどうすればよいのか? 私は「反対だけして代替案を示さない」というようなことは普通しないので、極めて難しい問題ではありますが、下記のような一応の代替案を考えてみました。こんなことはどの国でも未だやっていませんが、一つの方策ではないかと思っています。

代替案:

* 「裁判員」は、各地方裁判所の所轄地域毎に6人を選任する。(現行制度と同じ。)
* 但し、任期は1年(パートタイム)とし、妥当な報酬を支払う。(一度選任されて1年間勤めた場合は、生涯にわたり再度選任されることはない。)
* 「裁判員」になりたい人は、一定期間以内に立候補し、市町村会議員と同様の方法で選挙される。
* 選挙に先立ち、立候補者は簡単な試験を受け、不適格者はここでふるいにかけられる。試験の内容は、「文章や論理を理解する能力」と「一般的な社会常識」であり、ハードルは低い。(身体障害者や外国人のようにハンディキャップをもっている人に対しては、一定の配慮がなされる。)
* 一定期間で候補者が18人を超えた場合(当選倍率が3倍を超えた場合)は、抽選で候補者が絞られる。
* 立候補者は、「経歴」「所信」「司法判断に関する幾つかの具体的な質問(ケース毎に3択)に対する回答」を提出し、これが選挙人の判断材料として供される。
* 特別な選挙運動は禁止する。
* 選挙人は、18人の候補者の中から3人を選んで投票することを求められる。
* 当選者は、単純な多数決によって選ばれるのではなく、年齢と性別によってあらかじめ決められた枠内で選ばれる。(年齢については、20代、30代、40代、50代、60代以上のそれそれぞれの年代に対して1枠ずつと、無差別で1枠。男女比率については、年齢枠には関係なく、全体で「2対1」または「1対2」を超えないことを条件とする。)
* 選任された人は、履歴書にそのことを記載することが出来、この記載は、生涯にわたり、「賞罰」の「賞」に準ずる扱いを受ける。
* 立候補者が勤務している会社や団体は、立候補を妨げてはならず、1年の勤務期間中には、「仕事上で一定の実績を挙げた」のとほぼ同等の評価をしなければならない。また、1年の勤務後に当人に不利な配転を行ってはならない。

以上です。如何でしょうか?

ところで、あまり重要なことではありませんが、この機会に二つ追記したい事があります。

先ずは、「法律に関係している人達は数学に弱い」という、岡田さんの一般論としての「仮説」に対する反論です。

岡田さんのご指摘通り、経済学者にとっては、数学が基本的な素養として必要なのに対し、法律家にとっては、数学は直接必要とはされません。しかし、論理的な思考は必要です。それどころか、有能な弁護士と有能なソフトウェアエンジニアとの間には、私の見るところ、明らかな類似点があります。第一に、どこにも「抜け」を残さないこと。(即ち、全ての問題を潰していく「忍耐力」があること。) 第二に、問題を潰していくのに膨大な手間がかかる場合は、全体像を俯瞰した上で、全く異なった観点から切り込んで一気に結論に導く「思考の飛躍能力」があることです。

(ちなみに、私は弁護士ではありませんが、一応大学は法学部の出身です。また、ソフトウェアのエンジニアではなりませんが、ソフトウェアに関連する仕事を若干はしてきました。)

次に、「外国で行われていることを安易に真似てはいけない」もう一つの事例として、「夏時間の導入」を挙げたいと思います。(転ばぬ先の杖です。)

「夏時間」ほど、馬鹿げた制度はありません。アメリカでは州毎に違いますから、私自身、切り替え時にはよくアポイントメントの時間を勘違いして、何度かひどい目にあいました。それ以上に、今や、時計を組み込んだ電子機器は身の周りに数知れず、それをいちいち洩れなく調整するのは大変な手間です。「夏時間」は、大昔、「お爺さんの柱時計」と「各人の腕時計」が唯一の時計であった時に考え出された制度であり、現在の事情には適合しないのです。

そんな馬鹿なことをしないでも、日照時間をフルに使って電気代が節約したいのであれば、官庁や会社や学校が、「明日からは9時始まりでなく8時始まりとし、昼食時間は12時ではなく11時にする」と宣言すれば済むことです。朝一番のアポイントメントは8時に設定すればよく、午後一番のアポイントメントは12時に設定し、「昼食は出ませんから、済ませてきてくださいね」と言えば済むことです。

外国で行われている事は大いに参考にすべきですが、意味のない慣習まで無批判に真似をする必要は全くありません。

松本徹三

コメント

  1. courante1 より:

     松本徹三様
     拙論にご賛同いただき、ありがとうございます。法の素人が書いたものであり、内心ヒヤヒヤしながらの投稿だけに、大変うれしく思っております。
     制度を推進したものは「空疎な抽象論」であり「国民主権という言葉」が反対を封じたことは、まったくおっしゃる通りだと思います。
     代替案にお示しの裁判員の選定方法は適格者の選抜であり、裁判の適正化にとって有効だと思います。ただ若干付け加えますと、政治的な背景、あるいは特定の思想をもつ立候補者をどのように制限するかが問題だと思います。
     また裁判員を試験で選抜することは一般国民という抽象的な概念と相容れないところであり、抽象論者の抵抗が予想されます。裁判の機能を重視した場合、大変現実的で優れた方法であると思いますが。
     それからひとつ誤解があるように思います。冒頭部分は
    「むろん法律家は数学に弱いなどと一般化するつもりはありませんが、裁判員制度を見る限り、これは数学嫌いの人たちが作ったのではないかという印象を強く受けます」
     ということで裁判員制度を主導した人たち、という限定つきの考えです。一般化しているわけではありませんので、ご理解願います。

  2. somuoyaji より:

    裁判員に対する一切の罰則規定をなくし、裁判員制度採用の裁判の検察の控訴権をなくし、裁判員は量刑には関わらない。大きな問題点が無くなれば現行制度でいいと思います。

  3. st_uesugi より:

    確かにこの制度は広範囲で十分な議論・検証されていません。これを立法政治また国会政治上の問題として批判するならば非常に納得しますが、裁判員制度そのものの問題ではありません。
    粗末な制度といわれますが、私は岡田さんの記事のほうははるかに粗末なものだと思います。コメントでいくつかの誤りを指摘してあります。

  4. st_uesugi より:

    皆さんは自分の案を通してもらわないと、ほかのすべての案を反対すると、おそらく民主主義が成り立たなくなります。合意を達成するために多少の妥協が必要です。
    わたしは裁判員制度の強制参加と厳格な守秘義務を反対しますが、現状の司法よりよいと判断しているので、総論として裁判員制度を賛成します。
    反対するなら、現状制度より悪いと証明しないと、反対のための反対になります。
    チャーチルの言葉を転用させていただければ、「裁判員制度は最悪の制度だ。日本の今までのすべての審判制度を除けば。」

  5. bobbob1978 より:

    裁判員制度を推進している人々はそもそも根本的な点で勘違いしているようです。
     裁判員制度導入の契機の一つに「司法と市民の量刑感覚の乖離」があるようですが、これは法曹と一般市民の感覚の乖離ということではなく、むしろ明治40年に作られた刑法と現代人の感覚の乖離と言った方がよいでしょう。
     法曹は明治40年に制定された刑法とその後の裁判の判例に基づいて裁判を行っているのですから現代人の感覚から乖離した判決が出て当然です。(当然多少は刑法も改正されていますが、過去の判例に縛られる以上現代人の感覚から乖離した結果になるのは必然です。)このような現状を改めるには裁判員制度を導入しても無駄です。刑法の抜本的な改革が必要なのです。以下見直す必要があると思われる点です。

  6. bobbob1978 より:

    刑法39条
    裁判の長期化の原因の一つに「責任能力」に関する問題があります。異常な事件が起きるたびにこれが争点になりますが、これはナンセンスです。確実に「責任能力有」と考えられる行動を取っているのに精神鑑定を要求して裁判を長引かせるような戦法を取る弁護士などもいます。刑法39条の運用に関しては基準をはっきりさせ、公判前整理手続き等で責任能力の有無を争点として認めるかどうかを決めるなどの改正が必要でしょう。
    (そもそも脳科学の観点からすればこの「責任能力」という法律上の概念自体がナンセンスなので、刑法39条は廃止すべきだと個人的には考えていますが。)
    刑法45条~48条
    併合罪規定等の見直し
    刑法54条1項後段の牽連犯規定の廃止
    etc

  7. bobbob1978 より:

    また強姦罪などは判決が50年以上前の判例が効力を持っていたりします。これなどはナンセンスの極みです。
    裁判員制度を導入しようと上級審が過去の判例に縛られ判決を下すのでは意味がありません。刑法の抜本的な改革を行い、過去の判例の効力を無効化し、刑事司法制度を現代人の感覚に近づけなければなりません。

    その他刑事訴訟法の改正なども必要でしょう。現在のIT技術を使えば取調の様子を全て録画したとしても大した物量にはならないので、全て録画すべきです。裁判で「自白した。」「いや、あれは脅されて仕方なく言っただけだ。」などのやり取りをするのは愚の骨頂以外の何物でもありません。裁判員として裁判に参加しそんな茶番を見させられるのは真っ平御免です。

    上記のように司法に関しては裁判員制度を導入する前にすべきことが山ほどあるはずです。それをせずに裁判員制度導入のような小手先の改革を行っても効果は全く期待出来ないでしょう。