私は田部大輔さんの意見に反対です。 - 松本徹三

2009年06月07日 01:51

アゴラに新しい書き手が現れて、どんどん自分の意見を表明してくれる事は大歓迎で、同じアゴラの執筆者として嬉しい限りですが、今回の田部さんのご意見には、私は全面的に反対なので、そのことを、その理由と共に、ここではっきりと述べさせて頂きたいと思います。

私は「ソフ倫」の今回の決定には賛成であり、国家が介入する前に業界が自発的に自主規制を行おうとしていることは、「異常」どころか、極めて健全で、且つ重要なことだと思っています。


田部さんは「性暴力的なゲームソフトの制作を禁止する事」は「表現の自由」に対する「弾圧行為」であると言われていますが、そもそも、通常の法治国家において、「無制限な表現の自由」などは存在するべくも無く、現実に存在もしていません。法治国家においては、当然、色々な事が禁止され、規制されていますが、それを押しなべて「弾圧」と呼ぶのは、正しい言葉遣いではありません。

何が禁止され、規制されるかは、「それが社会的に有害であるかどうか」の判断によります。この判断基準は、当然各人によって異なるでしょうが、「性暴力的ゲームソフト」が社会的に有害であるという判断は、恐らく多くの人達にとって支持されるでしょう。逆に言えば、平均的な市民を集めた公開の場で議論をすれば、田部さんの議論が過半数の人達の支持を得る事は、到底不可能だと思います。

はっきり言わして頂けば、私自身にとっては、性暴力的な映像やゲームソフトの存在は不快であり、こういうものが自分の周りにいる(私が愛している)中高校生達の目に入る事は、極めて好ましくないと思っています。従って、誰かがこういうものを制作して世の中に広めようとしているなら、それは「私自身の人権に対する挑戦」だと考えます。そして、私は確実に実在している人間であり、モニターの向こうにしかいない「幻想上の人物」なんかじゃあありません。

「幻想や妄想の世界であっても、強姦や陵辱は許容できない一方、殺人は許せる」というのは「論理的な整合性を欠く」と田部さんは言われますが、この議論はポイントが外れており、下記のように整理して頂く必要があると思います。

1. 殺人も、強姦も陵辱も、行為としては許されず、全て犯罪となる。
2. 人間は、幻想や妄想の世界では、何を考えても自由で、何人もそれには介入できない。
3. しかし、そのような考えを表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり、その社会的影響が、「何が許され、何が許されないか」の判断基準となる。

そして、この判断基準については、先進諸国においては、大略下記のようなコンセンサスが確立しているように思えます。

1. 哲学や芸術の範疇に入るものは、反社会的な、或いは異常な思想や妄想であっても、許容される範囲を大きくすべきであり、これに対し、単なる商業目的のものは、その範囲を小さくすべきである。

2. 媒体としては、書籍や絵画などについては、許容範囲は比較的大きくなるが、新聞やテレビ・ラジオについては、許容範囲が小さくなって然るべきである。

(この理由は、私には未だよく理解出来ていませんが、主として「青少年の目に触れる機会が多いか少ないか」の判断によるものと思われます。しかし、もしそうであるなら、ゲームソフトやインターネットのコンテンツは、或る意味で新聞やテレビ・ラジオ以上に青少年の目に触れる可能性の高いものですから、当然、許容範囲は小さくなって然るべきでしょう。)

3. 内容については、殺人や、殺人に至る闘争、通常の性行為などは、許容範囲をある程度大きくしてもよいが、残虐な殺人や傷害、異常な性行為や青少年を対象にする性行為は、許容範囲を小さくするべきである。

(特に、「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させますし、一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めますから、「これは徹底的に規制すべきである」というコンセンサスは確実に存在します。特に、「社会的弱者である少年少女は自分達の手で守らねばならぬ」という意識が強い欧米人は、少年少女を対象にする性犯罪を何よりも憎み、「不幸にしてそのような犯罪を犯しかねない性癖をもって生まれついてきてしまった人達に対しては、それを助長するような刺激は極力与えないようにする」という考えも徹底しています。近年では、日本発の児童ポルノの存在が大きな問題になっており、これを規制出来ていない「日本という国と社会」に対する批判が高まっているのも事実です。従って、田部さんのように、これを「日本人が大事にしてきた自由」であると言い放つ気には、私は到底なれません。)

私の意見は上記の通りですが、何故私がここまで声を大にするかといえば、それは、私が「これからの社会を望ましい方向に変える力」として、インターネットに大きな期待をかけているからです。

かつて、グーテンベルグの印刷機は、聖書を誰でもが手に入れられるものとし、これにより、教会が独占していた理不尽な権威に風穴が開きました。近年においては、隣国から洩れてくるテレビやラジオの電波が、旧共産圏の独裁国家などの体制を崩壊させる原動力の一つとなりました。現在の日本の社会にもし何らかの閉塞感のようなものが蔓延しているとすれば、それを打ち崩す最大の力は、インターネットの更なる普及と、それがもたらす数々の新しい可能性であると私は信じています。

インターネットの更なる普及は、ざっと考えただけでも、下記のようなインパクトを日本にもたらすでしょう。

1. 青少年の学習効率が飛躍的に上がり、彼等の将来により多くの選択肢を与える。
2. 思考のベースとなる情報が世界的な規模に広がるので、思考の方向も次第に世界に開かれたものになり、日本人特有の内向き姿勢(内弁慶体質)が改善される。
3. インターネットが、既存の新聞・雑誌やTVと並ぶ世論形成の一つのベースとなり、これが政治の変革をもたらす。
4. あらゆる分野で、より効率的な需給の紐付けが実現し、経済活動が活性化される。
5. 「会社人間」である事を突然やめた中高年層(団塊の世代)に、多くの情報と相互交流の場を与え、彼等の「第二の人生」を、より豊かで生産的なものにする。
6. 大都市と地方の情報格差がなくなり、地方で従事できる仕事も増えるので、人口の分散がはかれる。(これによって住宅環境の底上げが実現し、内需の拡大も促進される。)

しかしながら、インターネットには光と陰があり、その陰の部分が人々にもたらしている不安感も極めて大きいものです。現在の日本では、インターネットに慣れ親しんでいない人達が未だ多数存在していますが、その人達にとっては、インターネットは「何やら気味の悪いもの」以外の何者でもないでしょう。インターネットの可能性に賭けている私のような人間でさえ、インターネットの陰の部分、特に青少年に与える影響については真剣に懸念しているのですから、こういう人達を含めた大多数の日本人の支持を得るためには、私達はこの陰の部分との戦いには、常に神経を張り詰めて対処していかねばなりません。

「性暴力的なゲームソフト」の制作を禁止されれば、「妄想を表現する」意欲を抑えられて鬱屈感に苛まれる人達や、生活の糧を得る手段を制限されて困る人達も、何人かはいるでしょう。しかし、こういう人達は、「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」という「より大きな目標」の為に、何とか我慢して頂きたいと思います。

追記: インターネットの陰の部分の怖さを描いた小説としては、芥川賞作家の平野啓一郎さんの「決壊」が秀逸です。これについての私の感想文を、昨年8月18日付のブログに掲載していますので、ご笑覧頂ければ幸いです。

松本徹三

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