アゴラに新しい書き手が現れて、どんどん自分の意見を表明してくれる事は大歓迎で、同じアゴラの執筆者として嬉しい限りですが、今回の田部さんのご意見には、私は全面的に反対なので、そのことを、その理由と共に、ここではっきりと述べさせて頂きたいと思います。
私は「ソフ倫」の今回の決定には賛成であり、国家が介入する前に業界が自発的に自主規制を行おうとしていることは、「異常」どころか、極めて健全で、且つ重要なことだと思っています。
田部さんは「性暴力的なゲームソフトの制作を禁止する事」は「表現の自由」に対する「弾圧行為」であると言われていますが、そもそも、通常の法治国家において、「無制限な表現の自由」などは存在するべくも無く、現実に存在もしていません。法治国家においては、当然、色々な事が禁止され、規制されていますが、それを押しなべて「弾圧」と呼ぶのは、正しい言葉遣いではありません。
何が禁止され、規制されるかは、「それが社会的に有害であるかどうか」の判断によります。この判断基準は、当然各人によって異なるでしょうが、「性暴力的ゲームソフト」が社会的に有害であるという判断は、恐らく多くの人達にとって支持されるでしょう。逆に言えば、平均的な市民を集めた公開の場で議論をすれば、田部さんの議論が過半数の人達の支持を得る事は、到底不可能だと思います。
はっきり言わして頂けば、私自身にとっては、性暴力的な映像やゲームソフトの存在は不快であり、こういうものが自分の周りにいる(私が愛している)中高校生達の目に入る事は、極めて好ましくないと思っています。従って、誰かがこういうものを制作して世の中に広めようとしているなら、それは「私自身の人権に対する挑戦」だと考えます。そして、私は確実に実在している人間であり、モニターの向こうにしかいない「幻想上の人物」なんかじゃあありません。
「幻想や妄想の世界であっても、強姦や陵辱は許容できない一方、殺人は許せる」というのは「論理的な整合性を欠く」と田部さんは言われますが、この議論はポイントが外れており、下記のように整理して頂く必要があると思います。
1. 殺人も、強姦も陵辱も、行為としては許されず、全て犯罪となる。
2. 人間は、幻想や妄想の世界では、何を考えても自由で、何人もそれには介入できない。
3. しかし、そのような考えを表現することに関しては、「許されること」と「許されないこと」があり、その社会的影響が、「何が許され、何が許されないか」の判断基準となる。
そして、この判断基準については、先進諸国においては、大略下記のようなコンセンサスが確立しているように思えます。
1. 哲学や芸術の範疇に入るものは、反社会的な、或いは異常な思想や妄想であっても、許容される範囲を大きくすべきであり、これに対し、単なる商業目的のものは、その範囲を小さくすべきである。
2. 媒体としては、書籍や絵画などについては、許容範囲は比較的大きくなるが、新聞やテレビ・ラジオについては、許容範囲が小さくなって然るべきである。
(この理由は、私には未だよく理解出来ていませんが、主として「青少年の目に触れる機会が多いか少ないか」の判断によるものと思われます。しかし、もしそうであるなら、ゲームソフトやインターネットのコンテンツは、或る意味で新聞やテレビ・ラジオ以上に青少年の目に触れる可能性の高いものですから、当然、許容範囲は小さくなって然るべきでしょう。)
3. 内容については、殺人や、殺人に至る闘争、通常の性行為などは、許容範囲をある程度大きくしてもよいが、残虐な殺人や傷害、異常な性行為や青少年を対象にする性行為は、許容範囲を小さくするべきである。
(特に、「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させますし、一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めますから、「これは徹底的に規制すべきである」というコンセンサスは確実に存在します。特に、「社会的弱者である少年少女は自分達の手で守らねばならぬ」という意識が強い欧米人は、少年少女を対象にする性犯罪を何よりも憎み、「不幸にしてそのような犯罪を犯しかねない性癖をもって生まれついてきてしまった人達に対しては、それを助長するような刺激は極力与えないようにする」という考えも徹底しています。近年では、日本発の児童ポルノの存在が大きな問題になっており、これを規制出来ていない「日本という国と社会」に対する批判が高まっているのも事実です。従って、田部さんのように、これを「日本人が大事にしてきた自由」であると言い放つ気には、私は到底なれません。)
私の意見は上記の通りですが、何故私がここまで声を大にするかといえば、それは、私が「これからの社会を望ましい方向に変える力」として、インターネットに大きな期待をかけているからです。
かつて、グーテンベルグの印刷機は、聖書を誰でもが手に入れられるものとし、これにより、教会が独占していた理不尽な権威に風穴が開きました。近年においては、隣国から洩れてくるテレビやラジオの電波が、旧共産圏の独裁国家などの体制を崩壊させる原動力の一つとなりました。現在の日本の社会にもし何らかの閉塞感のようなものが蔓延しているとすれば、それを打ち崩す最大の力は、インターネットの更なる普及と、それがもたらす数々の新しい可能性であると私は信じています。
インターネットの更なる普及は、ざっと考えただけでも、下記のようなインパクトを日本にもたらすでしょう。
1. 青少年の学習効率が飛躍的に上がり、彼等の将来により多くの選択肢を与える。
2. 思考のベースとなる情報が世界的な規模に広がるので、思考の方向も次第に世界に開かれたものになり、日本人特有の内向き姿勢(内弁慶体質)が改善される。
3. インターネットが、既存の新聞・雑誌やTVと並ぶ世論形成の一つのベースとなり、これが政治の変革をもたらす。
4. あらゆる分野で、より効率的な需給の紐付けが実現し、経済活動が活性化される。
5. 「会社人間」である事を突然やめた中高年層(団塊の世代)に、多くの情報と相互交流の場を与え、彼等の「第二の人生」を、より豊かで生産的なものにする。
6. 大都市と地方の情報格差がなくなり、地方で従事できる仕事も増えるので、人口の分散がはかれる。(これによって住宅環境の底上げが実現し、内需の拡大も促進される。)
しかしながら、インターネットには光と陰があり、その陰の部分が人々にもたらしている不安感も極めて大きいものです。現在の日本では、インターネットに慣れ親しんでいない人達が未だ多数存在していますが、その人達にとっては、インターネットは「何やら気味の悪いもの」以外の何者でもないでしょう。インターネットの可能性に賭けている私のような人間でさえ、インターネットの陰の部分、特に青少年に与える影響については真剣に懸念しているのですから、こういう人達を含めた大多数の日本人の支持を得るためには、私達はこの陰の部分との戦いには、常に神経を張り詰めて対処していかねばなりません。
「性暴力的なゲームソフト」の制作を禁止されれば、「妄想を表現する」意欲を抑えられて鬱屈感に苛まれる人達や、生活の糧を得る手段を制限されて困る人達も、何人かはいるでしょう。しかし、こういう人達は、「インターネットに対する社会的反感を拡大させない」という「より大きな目標」の為に、何とか我慢して頂きたいと思います。
追記: インターネットの陰の部分の怖さを描いた小説としては、芥川賞作家の平野啓一郎さんの「決壊」が秀逸です。これについての私の感想文を、昨年8月18日付のブログに掲載していますので、ご笑覧頂ければ幸いです。
松本徹三
コメント
この件はそれほど単純でもないと思います。
ソフ倫が規制を行うもっとも大きな動機は、「国家に規制させないため」です。国家による規制・禁止・検閲というカタストロフを回避するために、ソフ倫は自主規制を行っているのです。
分かりますか? 間接的に、国家が規制しているようなものなんですよ。国から見れば楽なもので、「自主規制しないと法律で規制するぞ」とモーションをかければ(事実立法権からの動きがあったわけです)、団体は「自主的に」規制を行う。自分の手を汚さずに、規制をかけることが可能なんですね。ソフ倫は、発売前にソフトを見て、「自主規制すべきかどうか」決めるわけでしょう? これって検閲とどう違うんでしょうか?
私は田部さんのエントリにもコメントしていますが、過激な性的暴力表現は、自主規制すべきだと思います。しかしそれは、あくまで「自主規制」であるべきです。国の顔色をうかがいながら決めた自主規制など、自主規制ではありません。
正直なところ、見識が無さ過ぎると言わざるを得ません。
自分の主張に相当に自信があるようですが、「社会的に有害であるという判断が支持される」というこの主張の論拠はどこにあるのでしょうか。円より子議員の「アダルトゲームが人格を破壊する」といった請願に賛同した際に行われたヤフーアンケートでは支持しない人の方が遥かに多かったはずです。
また、「私自身の人権に対する挑戦」という言葉の「人権」とは、具体的に憲法何条に明記された「人権」でしょうか?幸福追求権とでも言うつもりでしょうか?
人権侵害だと言うのであれば今すぐに裁判所へ訴えるべきでしょう。
「日本発の児童ポルノの存在が大きな問題になっており」とありますが、具体的に、何処で問題になっているのでしょうか。被害者の存在する「児童ポルノ」であれば兎も角、被害者の存在しない創作物を同様に規制している国がどれくらいあるというのでしょうか。法的拘束力の無い「怪しい団体の集まった国際会議」レベルの話を持ち出さないでいただきたいところですね。因みに、アメリカでは創作物も規制対象にした児童ポルノ法に違憲判決が出ており、極めて範囲の狭い「猥褻」に該当するものだけになっています。
nekonyanさんへのご返事です。
「私の人権に対する挑戦」という言葉遣いは、短絡的で大袈裟だったかもしれません。「私にも、他の人達と同様、社会で起こっている好ましくない事をストップさせる権利がある。それをストップさせないという考えがあるなら、それは私自身への挑戦と考える」という意味と理解してください。「訴訟する」云々の問題ではありません。
それから「被害者がいない」とおっしゃっていますが、刺激的なソフトが流通すれば、犯罪行為が誘発される可能性は高まり、潜在的被害者の数は増えます。「直接被害を受けてしまった人はまだ存在していない」わけですから、刑法上の構成要件は成立させませんが、「潜在的被害者」をなくするためにこういうソフトを規制することは、「安心して暮らせる社会を守る」為の行動として、当然正当化されて然るべきです。
コメントの字数に制限があるので、nekonyanさんへの返答の続きを新しいコメントとして下記します。
日本発の多数の「児童ポルノ」は確実に存在しています。現実に私はある米国人からそのことで攻撃されました。nekonyanさんがおっしゃっているのは、「表現の自由を確保する方が重要だから、そんなものは放置しておいてもよい。外国の潜在被害者などどうでもよい」という事ではないのでしょう? おそらくは、「潜在被害者を生む可能性のあるものとして、どこに一線を引くかが重要」と言っておられるのだと思います。もしそうであるなら、国が介入する前に、業界や一般市民が自主的にこの「線の引き方」を議論して決めるべきではありませんか? いずれにせよ、現状には明らかに「表現の自由」の行き過ぎがあると、私自身は考えています。
自分が子供を持つ親だとして、隣に住んでいる男がこういうソフトにはまっていると知ったら、嫌ですね、恐いです。ですから私は松本さんを応援します。シンプルな意見で恐縮ですが、難しい話とは思えないんですがね、この話。まあソフ倫という怪しげな警察官僚天下り先っぽい団体が、ほかにもいろんなことを規制し始めるのは問題ですが。そういうことをさせないためにも、選挙でこの立法を公約してくれる候補者に出てもらって、選挙で勝ったのちに立法してもらうのが一番なんですがね。それが民主主義でしょう。
正直なところ松本さんの意見は単なる感情論に過ぎないように見えます。
デンマークでポルノを解禁した(1967年のことです)ところ性犯罪の件数が著明に減少したという事実がありますが『少年少女を対象とする性行為についての表現』『刺激的なソフト』『性暴力的なゲームソフト』などが他のポルノと違って犯罪を誘発するという根拠が明示されていないためです、具体的な根拠となるデータはどこにあるのでしょうか?
無論他のポルノ同様 青少年の目に触れないようにするべきですし、見たくない人の目に触れることも無いようにしなければならないのは当然です、私も見たくない一人であり見たくないものを見るのはもちろん不快です。
ただそこですぐに全面的に規制するのではなく青少年や見たくない人が見ることの無いように配慮した上で少数であってもその人たちの見たいものを見る権利や表現する権利を尊重しなければならないと思います。
「3. 内容については~」の部分が、規制賛成派の見解としてもポピュラーなものかと思いますので、掘り下げて質問させてください。
この部分に、冷静な判断、正当な理屈があるように思えないのです。
私は、規制によって犯罪が減るのであれば、当然殺人を描写する作品は全て規制すべきであると考えます。
「羅生門」を読んだ者が、殺人を肯定するかもしれない。推理小説を読んだ者が、殺人を犯した犯人の心境に共鳴するかもしれない。そうではありませんか?
(因みに極論を言っているまでで、私はそうは思いません。同様に、今規制されようとしているメディアが、犯罪を産み出すものであるとも思いません)
良識のある人であれば、性暴力を否定するのは当然のことです。しかし、性暴力の「表現」に対する見解は、個人の興味の有無や感情論でしか語られていません。
それは、21世紀の「禁酒法」を産み出す結果にしかならないのではないでしょうか。そうなってしまった時、ゲームを禁じられた者が、隣人を襲わない保証もありません。
興味深く読ませていただきました。
ただ、やはりなぜ殺人がよくて性的暴力がいけないのかがよくわかりません。
そもそも殺人の残虐性とはなんなのでしょうか。人を殺す行為のほとんどは残虐なものだと思うのですが。人の命を奪うという結果が非難されるべき行為であることが大前提であるのに、その方法態様で表現の自由の基準を変えることに論理性がないように思います。
また青少年への影響についてですが、例えば仁侠や不良(ヤンキー)を題材にした表現物は溢れ返るほど溢れていますが、これらも規制すべきでしょうか?
こういった作品の多くが反社会的存在であるヤクザや不良を美化し英雄化しています。これを見た青少年に誤った印象を与え、彼らに憧れ誤った道に進んでしまうかもしれません。
仁侠作品が好きな人は多いです。しかしそれフィクションの娯楽作品としてであり、現実社会でヤクザの存在を歓迎する人はいないでしょう。
これは性暴力が描かれた作品であっても同じではないでしょうか?
始めに、私はこういったゲームを好んでプレイする人間です。なので、感情が入るかもしれません。
今回規制されたものは大半の人にとって不快なものであることは言うまでもありません。なので、この規制が社会の安心に繋がることも一時的にはく正しいのでしょう。
事実、私のそういう趣味でない友人達に聞いてみたところ反対したのは一人だけでした。彼が反対した理由は「なにかを規制すれば、その反発があって当然。そこで何が来るか怖い」というようなことでした。
聞きかじっただけの知識を振りかざす形になってしまいますが、こんなデータがありますhttp://mazzan.at.infoseek.co.jp/img/l2g4.gif
これは法務省発行の『犯罪白書』というものから作られたグラフです。これの強姦事件の件数に着目すると、昭和30年代を境に急激に上昇していることが分かります。さらに、昭和31年は売春防止法が制定された年でもあります。その後、昭和45年辺りを境にまた下がり出す原因はちょっと私には分からなかったのですが、ここに相関関係が無いと見るのはおかしいでしょう。
>何が禁止され、規制されるかは、「それが社会的に有害であるかどうか」の判断によります。
>この判断基準は、当然各人によって異なるでしょうが、「性暴力的ゲームソフト」が社会的に有害であるという判断は、恐らく多くの人達にとって支持されるでしょう。
>逆に言えば、平均的な市民を集めた公開の場で議論をすれば、田部さんの議論が過半数の人達の支持を得る事は、到底不可能だと思います。
表現の自由に限らずあらゆる自由や人権が公共の福祉によって制限されるべきか否かは社会的に有害かという主観的な多数意見の判断ではなく、それが他者の人権を具体的に侵すか否かによって判断されるべき物です。人権の制限は多数決によって決せられるべきものではありません。99人に否定されるものであっても、それが他者の権利を侵すものでない限り残り1人の自由な権利を最大限に尊重しなければなりません。それが民主主義と自由の根幹ではないでしょうか。
前の続きです。
無論アダルトゲームを始めとするポルノは未熟な青少年の成長にとって決して好ましい物ではありません。であるからこそ各メーカーやそれを販売は18歳未満への販売禁止、売り場の隔離などの自主規制を敷いて青少年の健全な成長という”権利”を侵さないようにしつつ自らの表現の自由とそれを楽しむ権利を守ってきたのです。それが互いの権利を尊重するという事ではないでしょうか。
上の続きです。
なんにせよ、安全弁は必要に思います。例えば、この件におけるこういったコメント欄やその他諸々の掲示板等のように。
また、「生活の糧を得る手段を制限されて困る人達も、何人かはいる」ということですが、何人かどころではないんじゃないでしょうか。製作会社、ソフ倫を代表する審査機関、小売店、私がすぐ思いつくだけでこれだけのところに影響しているんですから。さらに言うと、その種のゲームは常にある程度の売り上げを出し続けてもいます。影響は少なくないでしょう。
インターネットの安心、という意見はなるほどと思いました。その件に関するよい対論は思いつきません。それのみを追求するなら規制はした方がいいのでしょう。
仮に上記のように犯罪が増えたとしても、報道されなければ大多数の人達はそれを知らずに済みますし、知らなければ安心していられるわけですから。
被害者には「『より大きな目的』のために我慢して頂」くことになりますが。
皆さん、劇中殺人などと今回対象になっているゲームを比べている方が多いように思われますが、議論されている対象のゲームは「強姦や児童虐待それ自体を愉しむ」ものであって、それはストーリーの要素として殺人が組み込まれるものとはまったく違います。「殺人自体を愉しむ」ゲームと比べるならまだしも、推理ゲームや刑事ドラマなどと比べて論じるのはおかしいことです。多くの人がこの種のゲームに感じる嫌悪感はそこから来ているのであって、混同して論じるのはおかしいのでは?
apa7aさんへ
レイプレイって、電車内痴漢を楽しむゲームです。
「痴漢行為を楽しむ」ポルノ小説やマンガって、山ほどありますけど、それについては、どうなんでしょうか?
To apa7aさん
サスペンスや刑事物ではなぜ殺人が多いのでしょうか? それは聞いた話によると物語の起点を派手に演出しないと読者がつまらないと思うからだそうです。確かに窃盗等を題材にしたっておもしろみに欠けるかもしれません。
これって、暗に殺人をエンターテイメントとして楽しんでいることになりませんか? 中には被害者が殺されたって仕方がないと殺人を正当化するものまであります。
サスペンスにしろ、性暴力ゲームにしろ楽しむ側が、「それは良くないことである」という信念を持っている限り問題ないと考えます。それ以上は教育の問題です。
反社会的・不道徳(とマジョリティが考える)な行為を表現する権利を奪うことが出来るのは、他者の人権を侵したときのみです。これは憲法で保障されています。この権利が侵害された時、未来にあるのはウツクシイモノだけが許された言論統制された社会です。
そもそも暴力的なメディアが実際の犯罪を誘発するという主張を規制を肯定する人はよく言われ、松本さんも同じ様な主張をなさってますが、この様な環境犯罪誘因説或いは強力効果論は科学的には否定されています。暴力や犯罪を肯定する創作物を好む事と実際に犯罪を起こす事には何の因果関係も認められません。である以上、その様な創作物を否定するか肯定するかというのは基本的に個人の嗜好の問題、つまり単なる好き嫌い以上の問題にはなりません
ミスチルも歌ってるよね
「ダメな映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく」
っと、脱線失礼。
さて、この類の問題に関して子供のいる保護者の方々が一番不安に思うのは「自分の子供にはこんな有害なものを触れさせたくない」ということでしょう。
しかし、現代においてはゲームを規制しようがネットをブロッキングしようが、性の情報やポルノはありとあふれています。子供が必要としているのは、そのような性の情報とどのように付き合うべきなのかという、正しい知識なのだと私は考えます。
中学高校、特に男子となればその性欲と付き合う術を知らなければならない。情報の遮断は、子供の人格を鬱屈させるだけです。
松本氏の本文に意見させていただきます。
まず「社会的に有害であるかどうか」ですが、どれだけ有害かどうかを論理的・統計学的に説明できないかぎり、規制すべきと断ずるべきではありません。
また、「多くの人達に支持されている」事が常に正しいわけではありません。一見民主主義的に見えますが、それは全体主義的思想であり多くの国々が辿ってきた過ちを繰り返すだけです。
「哲学」「芸術」は多めに見て、「商業目的」はダメとありますが、陶磁器等の商業目的な芸術作品もありますし、画家だって絵を売って生計を立ててる人がいるでしょう。さらに言えば作品が芸術的かどうか?などを誰も決めることは出来ないのです。あえて言うのならば未来の人達に選択させるぐらいでしょう。
「青少年を対象にする性行為」はダメとありますが、なぜダメなのでしょうか? 確かに実在する児童個人に対する行為はその人権を侵害する事になるでしょうが、創作物の虚構の世界において、どのように権利を侵害するのでしょうか? あなたが不快だからとか世間が不快だからは通用しないと思います。
あと、今回の規制に関して言えば、例え店頭から性暴力ゲームを撤去したとしても、青少年が性暴力ゲームに触れる機会は恐らくほとんど変わりません。彼らが18禁のアダルトゲームの正規品をお金を出して買っているとは思えず、ネット上やDVD-Rに違法コピーされたものを利用しているケースが大半と考えられるからです。
レイプレイの件に関しても、問題になったのは英国で作られた海賊版です。日本でも女子高生が海賊版のアダルトゲームを大量に売っていた、なんて話もありましたね。
正規品を締め付けても、メーカーと正規ユーザーの自由を奪うだけだと思うのですが。
すいません訂正です。
先ほどの「青少年を対象にする性行為」はダメの件に関しては以下のように記述されておられましたね。見落としていました。訂正させていただきます。
#「少年少女を対象とする性行為についての表現」については、これが広く社会に流通すれば、現実に少年少女が被害者になる危険性を増大させます
とありますが、これは16番のnameko1789さんが指摘されているとおり強力効果論は現在では支持されていない学説です。
#一方、青少年自身が加害者になる危険性も高めます
これはゾーニング・レイティングによって青少年の目に触れさせないことで解決する問題です。
以上のことから、理由としては乏しいと考えます。
当たり前の話ですが社会が何らかの規制を行う際にはその対象の有害性について明確で説得力のある「理屈」が必要だと思います
それはたとえ規制そのものを多数派が支持したとしても無根拠なレッテル張りや偏見というものが存在する可能性があるからです
何が悪くて何が悪くないのか、曖昧のまま臭い物には蓋ではこれでは公平とは言えません
凌辱系ゲームが社会的に有害か否か
少なくとも論が主役のこのようなサイトにおいて
有害だと俺が思う、有害だとみんな思っている、だから有害なので規制するべきだ等という
言論、論ずることを頭から否定するような悲しいことは言わないで頂きたい
改めて有害性についての見識と論拠をお伺いできればありがたいです
松本徹三さん、返信ありがとうございます。しかし、全く反論になっていません。「権利」という部分が憲法何条に示された「権利」なのかと問うているのです。そのような曖昧な返答は聞いておりません。
あと、「犯罪を助長する」という根拠を提示してください。社会人であれば、根拠に沿った論理を組むのが当たり前です。何故それが出来ないのか、理解に苦しみますね。
また、「ある米国人」とやらの主張を鵜呑みにする理由はなんですか?アメリカは自国の散々たる子供への虐待を省みず、日本に対し「アメリカは児童ポルノの発信国だが、日本は消費国であり、多くの発信をしているのは日本のせいである」という責任転嫁をしているような国です。毎度の事ながら、米国人の詭弁・強弁にはうんざりします。
正直なところ、児童ポルノを「人権侵害の記録」ではなく「猥褻なもの」と解釈している人には吐き気すらします。
松本様ならびにapa7a様
「『無制限な表現の自由』などは存在するべくも無い」確かにそのとおりでしょう。
しかし、「『児童ポルノ法』でもって創作物を規制」できるようになれば、どれほど多くの創作作品が取り締まりの対象になるか、考えを巡らしたことはありますか? 規制の対象となるのはいわゆる今回槍玉にあがったアダルトゲームや、ポルノコミックだけではありません。『児童ポルノ法』の扱う範囲はあまりに広く、国民が普通に親しんできた、ごく普通の漫画やアニメ作品までもが取り締まりの対象になるのです。『児童ポルノ法』で取り締まれない作品を探すことのほうが困難なくらいとさえ言われているのです。
規制派は性暴力ゲーム以上に過激で有害な表現があるアダルトビデオについてまったく問題にしていません。ゲームを狙い撃ちにしています。「『児童ポルノ法』でもって創作物を規制」する突破口を開きたいという思惑が見え見えです。彼らは自分たちの価値観にそぐわない創作文化を抹殺したいので、性暴力ゲーム問題を利用しているだけにすぎません。安全な社会を作りたいとかそんな崇高な目的を持って活動してるのではありません。
>何が禁止され、規制されるかは、「それが社会的に有害であるかどうか」の判断によります。この判断基準は、当然各人によって異なるでしょうが、「性暴力的ゲームソフト」が社会的に有害であるという判断は、恐らく多くの人達にとって支持されるでしょう。逆に言えば、平均的な市民を集めた公開の場で議論をすれば、田部さんの議論が過半数の人達の支持を得る事は、到底不可能だと思います。
nameko1789さんもおっしゃっていますが、この主張はあまりにも民主主義の常識からかけ離れてはいないでしょうか。過半数を得たものが正しいというのは民主主義でなくただの多数決です。
>大略下記のようなコンセンサスが確立しているように思えます。
より説明されている3項については、暴力ゲーム規制の法律がしばしばアメリカで違憲判決を受けていることなどからも、とても「コンセンサス」を得ているとは思えません。
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20213667,00.htm
http://www.inside-games.jp/news/143/14369.html
いくつかご指摘をいただきましたのでお答えさせていただきます。
まず、私は自分の知らないことを書いて大上段に構えるような
ことは好きではないため、たとえばこれらのソフトが犯罪率を
上げるとか下げるとか、そのようなことは知りませんから
書きません。最初に書きましたように不快であり不安であるから
規制してほしいだけです。それが及ぼす影響、ファシズムだとか
警察権の拡大とか、まあそんな先のこともどうでもいいです。
この種の規制をするためにそこまで議論されなければならないと
いうこと自体、日本が民主主義の国として危うい、つまり
シビリアンコントロールがきかず大勢主義に簡単に移行しかねない
という危険性を皆さんが感じているのかもしれませんが、
そうかもしれませんし、私にはわかりません。日本の政治レベルは
発展途上国並みとよく言われますから、「規制を規制」しなければ
すぐにおかしな方向へ流れてしまうという危機感もあっても
おかしくないでしょう。ちなみに私は警察でも官僚でも軍人でもない
ただの一市民であり、警察や検察とかが力を握るような社会は
いかんと思ってはいます。だからこそソフ倫の自主規制ではなく
選挙で選ばれた議員に立法化してほしいと思うのです。
a inoue様
色々な意味で痴漢は社会現象化していますが、社会がこうなるのにそれらを愉悦の対象とするメディアが果たした役割は大きいのではと個人的には思います(根拠はありません)。ただ私が今の時点で優先的に規制してほしいと思っているのはもっと残虐な表現をもつ作品です。
J.T様
エンターテイメントとしての殺人、ありますね。でもその殺人は殺人を「愉悦の対象」にするものでしょうか。殺人級の犯罪でなければ推理小説は面白みに欠けるのはおっしゃる通りですが、殺人行為、たとえば「どうやって殺す」とか「どうやって苦しませる」という部分を楽しむエンターテイメントは、私は嫌です。そこに私自身のボーダーラインが存在しているということですね。このボーダーラインは個々人で違っていて当然で、多数派のラインがどこにあるかで規制はすればいいと思います。
連投ご容赦ください。
amalasty様
実写のアダルトビデオについても同類のものは規制すべきと思います。ただしアニメ等においては生きた人間を使っては表現不可能なおぞましい(というのは私個人の感想ですが)表現が簡単にできてしまい、実際にそういうものが作られていると認識しているので恐い、ということです。そこには私個人のボーダーラインが存在していて、テレビで放映されるアニメから、極めて特異な殺人や強姦それ自体を欲求の対象にしているものまで、皆さんどこかにボーダーラインがあるはずで、それが多数を占めるところで規制を実施すればいいと思うのです。ゲームを狙い撃ちしたいなどという気持ちはもっておらず、単に残虐性の高いものを規制してほしいと思っているだけです。ただ結果的にゲームを狙い撃ちしていると見えるならば、それは実はゲームの世界が他メディア以上に野放しだからなのかもしれません。
もうひとつだけ
個人的には規制反対の人々がアダルトビデオの陰部のモザイクにはなぜ反対しないのかという方が気になります。あれ、はずして欲しいんです、私は。
実はあんな風に隠されているから、別の方向へ欲求を求めた結果が、陰部を隠さないことよりもはるかに過激な多様化した性的趣味嗜好につながっているのではないか、と思ったりしてます。もっともこりゃ完全に私の空想に過ぎませんが。
>最初に書きましたように不快であり不安であるから
>規制してほしいだけです。
>私は嫌です。そこに私自身のボーダーラインが存在しているということですね。
>恐い、ということです。
こういった「素人なりの生活感覚」みたいなものは私的な責任の場、例えば各家庭での教育や自分の投票行動等なら「アリ」でしょうが、意見が異なる人もいる公の議論の場では混乱を招くだけです。
意見の出発点が「感覚」なのは何ら問題ありませんが、それを意見が違う誰かに伝えるには根拠が必要です。
また「イヤだと感じる人が多数派だからそれは規制、では民主主義でない」というのは24のレスにも書いたとおりです。
「自分が嫌いなものは、無くなればいいのに」
という感情は理解できますが…感情だけをぶつけた所で、水掛け論にしかなりませんよ。
apa7aさん、「環境犯罪誘因説」というキーワードを他の方が挙げてくださっているのですから、分からない言葉があったら自分で調べる程度のことはしてみましょう。
松本さんは多数派の意見があれば少数派の人権は制約されるべきとお考えなんですね。
松本さんが少数派になった時は、多数派の思うがまま、粛々と、粛清されるんですね。
松本さんが書かれた文章は極めてまともに見えましたが、私が非常識なせいですか?
さて、私の経験から述べさせていただきます。NY州ウェストチェスターカウンティのダブスフェリー村の図書館では、ほとんどの日本の漫画「ああっ、女神さまっ」「ドラゴンボール」などが「青年アダルト」の位置に置いてありました。これは3ヶ月前の情報です。いうまでもなく英語翻訳されてますよ。
これが一例になると思います。漫画を知ってる方なら、わかると思いますが、さきほど提示した漫画は、日本では、そんなに性欲を刺激する漫画ではないのにも関わらずです。(もっとどぎついのがいっぱいある)
もうひとつ、
アメリカのCBSという薬屋系スーパー、ストップアンドショップ、ウオルマートなどの大手スーパーはもちろん、バーンズアンドノーブルといった大手本屋でも児童ポルノ基準にひっかかる漫画は販売していないことも追記しておきます。
少なくとも日本のコンビニで販売されているどぎつい漫画はなかったですね。
もっともポルノ先進国ですから、あるところにはそれ以上のものがあったりしますが、それは明らかにそういうことが分かる店構えになっていたりします。
今思えば、ネットの話のようなので、スレ違いかもしれませんが・・・。
賛成している方々へ。
少し昔のことですがこんな言葉を言った牧師さんがいます。
「ナチスが共産主義者を弾圧した時、共産主義者でない自分は行動しなかった。
ナチスは次に社会主義者を弾圧した。社会主義者でない自分は抗議しなかった。
ナチスは、学生やユダヤ人に弾圧の輪を広げ、最後に教会を弾圧した。
牧師の自分は立ち上がった。時すでに遅かった。
『抗議するには誰のためではない、自分のためだ』」
ヒトラーに抗議し、収容所に送られたドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉(04年8月8日付『朝日新聞』-「風 ロンドンから-外岡秀俊」より)
私が危惧しているのはこういうことです、だから客観的な事実にもとづかない限り少数派の人の権利も尊重すべきだと私は考えているのです。
あんたれすさん
ドラゴンボールがポルノかどうかという話はさておきまして(笑)、
別に規制に反対する人も表現の自由だからポルノを子供の目に付く所に並べろなどという主張をしてる訳ではないです。
ポルノやバイオレンスな作品を一般の売り場と分けて子供やそれを好まない人の目に付かないようにするというゾーニングは日本でも普通に行われてる事で、
むしろそれは規制に反対する立場からも望ましいあり方です。
これは例えばタバコやアルコールを未成年には販売しない事や、タバコの禁煙場所と喫煙場所の区別といった事と本質的には変わりありません。
それが不十分ではないかという点に関してはまだ議論の余地がありますが、
基本的にこの様な線引きによって両者は共存可能な訳です。
上の続きです
それを飛び越えて法律でそういった表現物そのものを規制しよう禁止しようという考えは行き過ぎてるのではないでしょうか。
日本では普通に売られているドラゴンボールやああっ、女神さまっが子供に見せられないほど過激かどうかという点に付いては
国や文化の違いによる受け止め方もありますから個々の作品について一々議論するのはあまり意味がないと思います。
個人的には青年区分とはいえドラゴンボールなどのコミックを置いている図書館というのは
むしろ日本に比べてかなり寛容なんだなあという印象も受けますが(笑)。
>このボーダーラインは個々人で違っていて当然で、多数派のラインがどこにあるかで規制はすればいいと思います。
apa7aさまも含めて、多くの人が、なぜ「基本的人権規定」が憲法に存在しているか、理解していらっしゃらないようです。多数派の合意で人権の範囲を決めるのであれば、通常の法律で決めればいいではありませんか。
憲法学者(長谷部 恭男)などの言うところでは、憲法に基本的人権規定を置いて、簡単には改正できないようになっているのは、まさに、多数派の専制から少数派の利益を守るためです。
よって、表現の自由は、「多数決=民主主義」で決めてはいけない条項に相当します。裁判所のような、非民主的で、理性と論理の支配する場でのみ、その範囲を決めることが許されるのです。
裁判所で、
「個人的には思います(根拠はありません)」
と証言しても、相手にされないでしょう。
liberal20様
ありがとうございます。「環境犯罪誘因説」勉強になりました。まだWikiを読んだだけではありますが。
さて余計なことを色々書いてしまいましたが、あんたれす様が33で記述しているように、アメリカではこの手のメディアはそれを買おうと行動しなければまず目にすることがないのは事実で、表現の自由が認められていても、それが氾濫しているわけではありません。アメリカではお酒を買うためにも身分証明書を提示して年齢制限をクリアしていることを証明しなければなりませんが、日本はそういう意味では明らかに寛容なのですが、それも良いことなのでしょうか。
そう考えると、規制賛成と書いてしまいましたが、表現を規制するのではなく、頒布・販売方法を工夫すれば済む話なのかもしれませんが、それを論じている方はあまりおられないのは気にかかります。
さてご指摘も受けたように私などの稚拙な意見でこのブログが混乱してしまっては応援している松本さんにも申し訳ないので、私はこのへんで撤退することに致します。失礼致しました。
松本さんの主張は極めてまっとうなもので、私はほとんどに同意できるにもかかわらず、反対論の多いことに驚きました。
規制をまったくしないというのは非現実的であり、どこかでラインを引く必要があります。ならば国がラインを引くより自主規制の方が好ましいでしょう。
私はこの問題に詳しくないのですが、松本さんの現実論に対して反対論は表現の自由や民主主義をかざした理念中心のものが多いようであり、議論が噛み合ってない印象があります。
松本さんの3項目の提案はラインを引く方向性を示したもので、あとは関係者の利害を調整しながら決めればよいことだと思います(簡単ではありませんが)。この問題を表現の自由の危機につなげるのはちょっと心配のしすぎではないでしょうか。
私は松本さんの立場に賛成です。
私は性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、いわゆる”マンガ”も、青少年の精神を蝕む公衆衛生上の脅威、と考えています。
タバコやアルコールのような惑溺性の物質が若者達に手に入らないのはそれらがが彼らに有害だからです。
同じように性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、いわゆる”マンガ”も若者達に常習性・惑溺性をもたらし、有害です。
このように私達の社会で”害毒が見えにくい”からと言って、野放しにされてもよいわけではありません。
最近の新型インフルエンザ発生の際や食物の汚染や賞味期限切れに対する日本人の敏感さ・潔癖さと比較すると、性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、またいわゆる”マンガ”の公衆衛生上の脅威に対する日本人の鈍感さは、ホントウに同じ人々の反応なのか、私は大いに疑問を持っています。
satahiro1様
煙草とアルコールは科学的に人体にダメージを与えること、特に若年には強く有害であることが確認されています
しかし性暴力的な映像にそのような科学的立場から有害性が立証された研究がお有りになるのでしょうか?
(逆に否定する研究結果はあるようですが)
また統計的に見るなら規制が緩いと言われているこの国の性犯罪率が低い現状では
犯罪に繋がるという理屈は成立しないと思います
青少年への影響と仰いますが昔と比較して青少年が起こす犯罪は比率として減っているという統計もあります
では何を持って有害と言えるのか
それがただの偏見である可能性があるから規制は問題なのです
有害かどうかを根拠無く認定して多数派に認められれば正当化出来るとするなら
同性愛差別も人種差別も民族差別も正しいこととして社会は認めなくてはなりません
差別主義者と言われる方々の論理と全く同じなんですよこれ
だからこそこのような形の規制に異議を唱える方々がこのコメント欄には多くいらっしゃるのではないでしょうか
見えにくい害毒が存在するとするならば是非とも自分がそう思うではなくて
客観的に因果関係が立証された具体的な論拠のご提示をお願いいたします
>courante1 さん
>現実論に対して反対論は表現の自由や民主主義をかざした理念中心のもの
現実論による規制を優先して理念や原則を無視するのは、その規制をどうしてもすべきだという客観的な理由があるときです。例えば学者によって「ポルノを見た人は明らかに性犯罪性に走る確率が高い」といった研究結果が出てきた場合などですね。
buzzlikeさんがおっしゃるとおり、実際にはそういう研究結果は出ていません。
また現実論といっても、何が有害な表現で何が有害でない表現なのかをきっちりボーダー分けするのはとても「非現実的」なことです。人によってその感覚は違うのですから。
>satahiro1 さん
>若者達に常習性・惑溺性をもたらし、有害です。
>私達の社会で”害毒が見えにくい”からと言って
全く根拠が示されておりません。
恐らく害毒があるから隔離だ、というのはハンセン病患者に対してかつて行われていたのと全く同じ行為です。
>公衆衛生上の脅威
ポルノ要素の含まれる表現をバイキン扱いするのは、比喩としても表現者に対する相当な差別表現ですが。
「衛生」「健康」に関する表現を多用していらっしゃいますが、表現規制は病原菌の感染防止と全く違うものです。
アメリカも禁酒法やらコミック弾圧やらの歴史がありますからね。それらがもたらしたものを考えると、反面教師とすべき歴史だと思います。
もっとも、コンビにに18禁の雑誌が置かれていたり、ネットで簡単にわいせつ画像を見られてしまう現状については大いに議論すべきでしょう。ただしアダルトゲームに関しては、普通に生活している限りなかなか出会わないものだと思いますし、チェックの甘さはあるかもしれませんが年齢制限もあります。
最後に蛇足ながら。現代の少子高齢化の一因とも言われる純潔教育、これを復活させようという動きがあります。今回性暴力ゲームの規制に動いたのは、その急先鋒的な人物である山谷えり子衆院議員であることに、私は少々危うさを感じてしまいます。
山谷えり子議員は参院議員ですね。
「少子高齢化の一因」というのはちょっと聞いたことがないので疑問が残るですが、ジェンダーフリー思想反対で活動してきた山谷議員がなぜジェンダーフリー団体の掲げる主張・政策に基づいて今回の規制の先頭に立ったのかは不思議に思っています。
あんたれす 様
図書館の件の説明がよくわからないです。
かつて漫画は子供が読むもの、とみなされておりましたが
日本の漫画は、いまでは米国でも大人の鑑賞に堪えうるものと
認識されるようになり、普通に成人が読むものになりました。
だから「青年アダルト」コーナーに置かれていただけ
ではないでしょうか?
「子供コーナー」に置かれていたら、逆に大人は借りづらい
ですよね。
「アダルト」とは別に性的な意味だけではありません、
ふつうに「大人」という意味もあります。
そもそも公共の図書館に、性的な意味の「アダルト」コーナーが
あってはまずいと思うのですが?
あと近所のホームセンターで、米国から輸入したと思われる雑貨の外箱に、幼女のビキニ姿の写真とか印刷したのやたら多いのですが・・・本場アメリカのウォルマートとかではどうなのでしょうか?
けっこうアメリカのそういった部分、ちぐはぐな感じがしますが。
なお、あんたれす様の文章からは、ゾーニングを徹底すれば問題ないというふうに受け取れるのですが、そういう解釈でよろしいでしょうか。私もゾーニングには反対しません。
satahiro1様
「いわゆる”マンガ”」 というように表記されたのには、何か意味があるのでしょうか?
貴方が有害だと思っているのはポルノコミックの類なのか、あるいは少年ジャンプに掲載されるようなふつうの漫画を含めて漫画というジャンルすべてが有害だと考えておられるのでしょうか?
あと、貴方の文章からも、青少年の目に触れるのが問題であって、ゾーニングの徹底をすればいい、というふうに受け取れます。そう受け取ってよろしいですか?
規制派議員は、漫画やアニメといった創作物の性表現をすべて違法化しようとしています。「所持」しただけで麻薬などと同じ「逮捕」できる法律を適用しようとしています。貴方は自分には関係ないと思っているかもしれません。しかし、創作物の性表現は貴方が考えているのよりもはるかに広範に渡ります。漫画を持っていなくとも、新聞や雑誌を買っていれば、現時点でまず所持していると考えて間違いないでしょう。いや、たとえばキューピーマヨネーズがあればそれだけで逮捕可能なのです。そんな異常な法律が成立しようとしている瀬戸際にいる、だからこんな大騒ぎになっているのです。
私が危惧しているのは、いわゆる規制推進派と呼ばれる方達が
「共存の仕方」を考えるのではなく「根絶やしにすること」しか考えて
いないように見えるからです。
見たくない人への配慮、であればゾーニングを、
青少年への影響、であれば教育と18禁を、
すれば良いのに、そういった共存の仕方を飛び越えて
何故か表現そのものへの根絶へと向かってしまう。
これは本当に怖いことだと思います。
おそらく多くの人が気にしているのはここではないでしょうか。
ほんとうにまったく何の規制も必要ないと思ってる人は
少数だと思います。
規制と言っても色々あります。
既に取り込まれているものも多くあります。
しかしながら昨今の「法律で表現を禁止し違反すれば逮捕」
のような「撲滅を!」と言わんばかりのヒステリックな議論を
見ていると、非常に背筋が寒くなるものを感じるのです。
このようなモラル・パニックに巻き込まれること無く
冷静な議論を進めていって欲しいと願っている一人です。
>buzzlike
>性暴力的な映像にそのような科学的立場から有害性が立証された研究がお有りになるのでしょうか?(逆に否定する研究結果はあるようですが)
>>私は松本さんの立場に賛成です。
私はこのスレッドで松本氏に対して賛意を表しています。
あなたが松本氏の意見に対して異を唱えられるのならば、まずはご自分に有利な(否定する)研究結果を示されれば如何でしょうか?
それを精査し、議論を松本氏や他の人々と共に深めることができます。
>有害かどうかを根拠無く認定して多数派に認められれば正当化出来るとするなら同性愛差別も人種差別も民族差別も正しいこととして社会は認めなくてはなりません
私は多数派が認めたから少数派の意見が弾圧されたり、差別されてもよいとは考えておりません。
私のレスのどこにそのような考えが示されているでしょうか?どうぞご明示ください。
satahiro1さん
>私のレスのどこにそのような考えが示されているでしょうか?
横から失礼しますが、あなたのレスではありませんが
松本氏の文章の中に「制作を禁止」とはっきりあります。
私も、松本氏の意見の中の
テレビなどの多くの人の目に簡単に入るものは
ある程度表現の幅を狭められても仕方が無い、等というところには
賛同できるのです。
しかし「表現することそのものの禁止」であれば
すでに田部氏や多くの人が書いているように問題がありすぎです。
私は、その辺のこともよく考えた上でどうやったら
「表現することそのものの禁止」をせずに
社会がなるべく円滑に進むか、その道を探って欲しいのです。
>amalasty
>漫画というジャンルすべてが有害だと考えておられるのでしょうか?
私は広義の”マンガ”が青少年に取り有害と考えます。
子供を静かにさせるために就学前から”マンガ”を買い与える親がいますが、子供の教育や知的な成長を阻害するもとと考えます。また、義務教育中の子供達にとっても同様である、と考えます。
>青少年の目に触れるのが問題であって、ゾーニングの徹底をすればいい、というふうに受け取れます。そう受け取ってよろしいですか?
私はゾーニングについて述べておりません。
社会にある物品に対してゾーニングがあると言うことは、社会においてそれらに有害性や何らかの規制がなされるべきである、とコンセンサスが受け入れられていると言うことでしょう。
私が前のレスで述べた要点は、「肉体や健康に対する公衆衛生上の脅威である新型インフルエンザや食物の汚染、賞味期限切れに対してあれほど騒ぐのに、同じように精神上の発達を阻害する恐れがあり他の人々への尊厳を踏みにじるような性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガを野放しにしている日本人のダブスタな態度は、おかしい。」 と言うものです。
>私は広義の”マンガ”が青少年に取り有害と考えます。
>子供を静かにさせるために就学前から”マンガ”を買い与える親がいますが、子供の教育や知的な成長を阻害するもとと考えます。また、義務教育中の子供達にとっても同様である、と考えます。
あまりにも主張が急進的すぎ、根拠もなんら示されておりません。
個々の家庭で「うちはテレビもマンガも見せない」という教育方針を貫くようなことは許されるかもしれませんが、それを他人や他人の家庭に強要した場合はただの傲慢な宗教でしかありません。
>vivi
>個々の家庭で「うちはテレビもマンガも見せない」という教育方針を貫くようなことは許されるかもしれません
何らかの信条に基づいてそのような教育を行う家庭もあるのでしょう。
あなたが言うようにそれは、各家庭で選択すべき問題です。
>それを他人や他人の家庭に強要した場合はただの傲慢な宗教でしかありません。
私は誰かに自分の考えを強要しているでしょうか?
私は自分の考えを表明しているだけです。
あなたは私に「傲慢な宗教を信奉している者」と言うラベルを貼ろうとしているのでしょうか?
それは1920年代から40年代の国家社会主義が猛威を振るったドイツでの「プロパガンダ」を思い起こさせます。
むしろあなたがすべきことは自分の考えを補強する事実を提示し、納得を得られるように説得することです。
>あなたは私に「傲慢な宗教を信奉している者」と言うラベルを貼ろうとしているのでしょうか?
>それは1920年代から40年代の国家社会主義が猛威を振るったドイツでの「プロパガンダ」を思い起こさせます。
むしろ「広義の”マンガ”が青少年に取り有害」という主張に退廃芸術などを取り締まった国家社会主義時代のドイツを感じるのですが。
私は自分の思うことを言っているだけで他人にそれを認めさせようとしていない、というのは言論空間にふさわしい態度であるとは思えません。
ゲームと犯罪と子どもたち ――ハーバード大学医学部の大規模調査より
http://www.amazon.co.jp/dp/4844327089
テレビゲームと子どもの心―子どもたちは凶暴化していくのか?
http://www.amazon.co.jp/dp/4895954633/
ゲームが現実世界での行動に影響を与えるか否かについて、上の本は大規模な調査がされているという点で重要な本、下の本は国内の第一人者である研究者が手がけたという点で重要な本です。
いずれの本でも、ゲームの影響で現実社会での行動が悪化するということは示されておりません。
「ゲームの影響で現実社会での行動が悪化しないということが示されている」と言うことで、了解しました。
>vivi
>ゲームが現実世界での行動に影響を与えるか否かについて、上の本は大規模な調査がされているという点で重要な本、下の本は国内の第一人者である研究者が手がけたという点で重要な本です。
>いずれの本でも、ゲームの影響で現実社会での行動が悪化するということは示されておりません。
上記のように大方の青少年・成年男性にとり”性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ”が有意な悪影響を与えない、と言う研究結果があることに同意します。
では、小児愛者などの性犯罪者に対して”性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ”は性犯罪を犯す、アクセラレーターの役割を果たす、と考えますがその考えも否定されているでしょうか?
今回問題になった“レイプレイ”ですが、
ポリゴンを使ったものであり、登場人物もリアルを
意識したもので、いわゆるアキバ系オタクが好むようなものでは
ないということですね。
アキバ系オタクが好むのは、アニメ風キャラクターが登場し、
静止画を読み進めていき、選択肢を選択するといった、
はたしてゲームといえるのかという程度のものです。
両者は作りも内容もユーザー層もまったく違うものですが、
そのへんのところ理解していない人が意外に多いようです。
一律にアダルトゲームだ、有害に違いない、規制せよ、と
言っているわけです。
tori08様
>「根絶やしにすること」しか考えていないように見えるからです。
私もそのように感じております。
最近の規制派議員らの執念にはちょっと異常なものを感じます。
そして、創作文化の性表現への嫌悪、というより、むしろ“美少女
キャラクター”の存在そのものに対する敵意を強く感じるのです。
ある日本で開かれた国際会議で、いわゆる今風の萌えキャラクターがマスコットキャラとして採用されようとしましたことがありました。そのとき、自民党のある派閥の領袖がこれを「日本人見えない」といって握りつぶしたといいます。
「日本人同士が結婚して家庭を築き子を産み育て伝統を受け継いでいく」ことを理想とする価値観を持つ彼らには、そうした嗜好が
不健全であり、不気味に映り、許しがたいのでしょう。それで「児童ポルノの根絶」というもっともらしい口実をつけて、そうした美少女キャラクターを根絶やしにしようとしているのだと思います。かつてナチスがユダヤ人を地上から抹殺しようとしたように。
外岡秀俊氏と同様に1920年代から1940年代にナチス・ドイツで”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々について研究したことがあります。
彼らは政権に刃向かったとしてアウシュビッツ・ダハウに送られ、ガス室で処刑されました。また、それでは手ぬるいとしてギロチンで処刑された者もいます。
彼らはユダヤ人と言う民族的な背景ではなく、ナチスが許さない”自由”を追い求めたため処刑されたのです。
>amalasty
>創作文化の性表現への嫌悪、というより、むしろ“美少女
キャラクター”の存在そのものに対する敵意を強く感じるのです。
>「児童ポルノの根絶」というもっともらしい口実をつけて、そうした美少女キャラクターを根絶やしにしようとしているのだと思います。かつてナチスがユダヤ人を地上から抹殺しようとしたように。
さて”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々と同様に、創作文化の性表現や美少女キャラクターの、何にあなたは価値を見出しているのでしょうか?
私が研究した1920年代から1940年代にナチス・ドイツで”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々は、私が知る限りではこのスレッドにおいて話題になっている、田部さんの「性暴力的なゲームソフトの制作を禁止する事」は「表現の自由」に対する「弾圧行為」である、との考えには与しないように思えます。
彼らはその「表現の自由」なるものを、新たな自由の侵害と考えると言うことです。
ですから私も『「性暴力的なゲームソフトの制作を禁止する事」は「表現の自由」に対する「弾圧行為」であり、それは国家社会主義時代のナチス・ドイツと同様だ』との言説に与しません。
“表現の自由”など各種の権利を獲得するために国家権力と戦ってきた人々を、他の集団と一緒くたに安易にカテゴライズすることは人類の進歩に貢献してきた人々に対する冒涜である、と私は考えます。
satahiro1様
レスありがとうございます。
>さて”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々と同様に、創作文化の性表現や美少女キャラクターの、何にあなたは価値を見出しているのでしょうか?
美少女キャラクターに対しては存在そのものにです。架空の存在とはいえ、私にとっては、人格を持った一人の人間であり、空想の世界の恋人であり、心を満たしてくれるかけがえのない存在です。
創作文化の性表現については特段の価値を見出してはいません。
性暴力ゲーム問題を表現の自由と結びつけることに関しては、
貴方と同様、多少の違和感を感じております。
ただ規制派が「児童ポルノ」法を持ち出すことに、強い懸念を
抱いているのです。
「児童ポルノ法」は本来、児童福祉法、肖像権、名誉毀損等現行の法律で対処できるものを、児童の人権により配慮しわざわざ別に定めた特別な法律です。適用範囲はきわめて幅広く、なおかつ強い強制力をもったものです。
創作文化に適用すれば、創作文化そのものを破滅に追いやりかねません。
規制派は有害表現で溢れかえっているAVや、児童ポルノまがいのジュニアアイドルなどはまったく問題にすらしておらず、明らかに創作文化「だけ」をターゲットにしているのです。
>satahiro1 さん
横レス恐縮です。
>私は誰かに自分の考えを強要しているでしょうか?
別エントリでも書きましたが、他人に性的嗜好を再吟味せよと書いておられます。この問題について、satahiro1さんの好むような考えを他人に強要しているものと思います。
>むしろあなたがすべきことは自分の考えを補強する事実を提示>し、納得を得られるように説得することです。
これはsatahiro1さんが努力すべきことなのではないでしょうか。vivi氏がゲームの有害性についての否定される論拠を出している以上、satahiro1さんはそれに耐えうるだけの反論の論拠を出されるべきだと思います。これについて何も答えず、
>では、小児愛者などの性犯罪者に対して”性暴力的な映像>(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ”は性犯罪を犯す、アク>セラレーターの役割を果たす、と考えますがその考えも否定>されているでしょうか?
などと反論と関係ない質問を重ねておられます。これも少なくともアクセラレータの役割を果たすという論拠をご自身でお示しになるべきです。
この様に粘着するのはイヤなのですが、人の内面の問題だけに放置もできません。どうもsatahiro1さんは言論空間にふさわしい議論をされているようには思えないのですが・・・。
46. satahiro1 2009年06月10日 20:55
>加茂屋 大気 氏
>若者達が性的捕食者(性活動において活発な若者達も含む)たちの犠牲(望まないのに性行動を行うことを含む)になることを残念に思われることでしょう。
>また私が彼女達のことを何らかの物品・役務物より重要だ、とする考えに理解を示されることでしょう。
>で、あれば多くの人々は自分自身の性的嗜好を再吟味されるのかもしれません。
61. zenigataself 2009年06月12日 01:22
>>私は誰かに自分の考えを強要しているでしょうか?
>別エントリでも書きましたが、他人に性的嗜好を再吟味せよと書いておられます。この問題について、satahiro1さんの好むような考えを他人に強要しているものと思います。
「46」と「61」を比較すると他人に「性的嗜好を再吟味『せよ』」と銭形シェリフさんは、誤って理解しておられます。
私は「46」で「他の人々への尊厳を踏みにじるような性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ」を愛好する人々の良心、に訴えかけて嗜好や趣味よりも重要とされるものを優先していただくよう呼びかけたのです。
オンライン上の性犯罪者 : リスクを最小限に抑える方法
(http://www.microsoft.com/japan/protect/family/guidelines/predators.mspx)
被害に遭う危険がある若者のタイプ
思春期の若者は最もつけこまれやすい年齢であるため、オンライン上の性犯罪者の被害に遭う危険が高いと言えます。 思春期の若者は、性的な事柄に関心を持っており、保護者の支配下から逃れて家族以外の誰かと新しい関係を築くことを求めています。そのため、匿名性があることを口実にして、起こり得る結果を完全に理解しないままオンラインで危険を冒そうとします。
オンライン上の性犯罪者の標的にされやすい若者には、次のような傾向が見られます。
•オンライン活動の初心者で、ネチケットをよく知らない
•コンピュータにのめり込んでいる
•実生活でも流行の先端をいこうとする
•自分から気を引こうとしたり、媚びたりする
•反抗的である
•孤立している、または孤独である
•好奇心が強い
•性同一性の点で混乱している
•大人にだまされやすい
•親の守備範囲外のサブカルチャに魅了されやすい
子供は、自分では性犯罪者の危険性についてわかっているつもりでいますが、実際にはオンラインでの人間関係に対する認識がかなり甘いと言えます。
satahiro1さん
あなたが他人の良心への呼びかけるのは自由です。それが間違ってるとも言いません。しかしそれを国家による圧力と法規制によって為そうとするのは間違いではないでしょうか。個人の道徳に国家の介入を許すべきではありません。ポルノであるから規制が許される、許されないという事ではないのです。許される表現・許されない表現などという物差しを国家に与える事は結局より大きな自由を権力に売り渡す事に他なりません。
Wikiによれば…
>民主主義にあっては、政治上の意思決定は終局的には市民によってなされることとなるが、適切な意思決定をなすには、その前提として十分な情報とそれに基づく議論が必要となる。
>情報を得、また議論をなすためには表現の自由は必要不可欠な権利である。いわば、表現の自由は、民主主義の根幹をなしているのである。
私はこの考えを全面的に支持します。
ナチス・ドイツで”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々や今日も他の様々な政治体制において同様な行動を取る人々と連帯します。
それとともに、誰かが「表現の自由」であると、持ち出すもの全てに価値がある、との考えは持ちません。
それら一つ一つについて自分自身の考えで価値判断させていただきます。
それが私たちに価値があるものか、無価値なものかを。
私は民主主義政体にあって、自立・自律した個人はこのような、健全な”猜疑心”を持つべきと確信しています。
それで明らかに問題があるものについて、十分な情報とそれに基づく議論を行ったうえで、社会として適切な意思決定をなすことになるでしょう。
そして結果として、私たち国民にコントロールされた公的機関や法律で何らかの規制が、必要となってくるのかもしれません。
「規制」と書くと色々な意味が含まれまだ穏やかさが残りますが
所謂昨今の規制推進派の方がやろうとしていることを
ハッキリと言ってしまえば「思想犯として捕まえて刑務所に入れる」
ということですよ。
satahiro1 様
表現や言論の自由を国民から奪いたい人間が、そのことを正面から
言うでしょうか?まずはポルノなど、表立って反対しにくい分野で
規制を行い、突破口とするのです。
戦前の表現・言論統制も、ポルノから始まりました。
中国でも近々検閲ソフトが導入されるそうですが、これも表向きは
「青少年の健康的成長の保護」などとしていますが、反体制運動を封じ込めるのが真の狙いとされています。
今回規制を推し進めているのは、徴兵制を賛美したりと、ちょっと
おかしな人間ばかりです。普段から人権尊重を訴えている政党は、規制に反対しております。規制の裏に別の邪悪な目的が潜んでいることは明白です。敏感な人間ならすぐわかるでしょう。
貴方の、「性暴力的なゲームソフトの制作の自由を主張すること」は
「表現の自由を求めるために国家権力と戦ってきた」崇高な活動とは違うという意見には賛同できません。ともに同じ「表現の自由」であり、両者はつながっているのです。
「性暴力的なゲームソフトの制作の自由」が奪われれば、やがては
多くの犠牲を払って、国家権力と戦って手にした表現の自由を失うことにつながるのです。
【 国連の自由権規約委員会が、表現の自由に対する制約をなくすよう日本に勧告! 】
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/31255d062e8305af131a0803f05b6482
上記、http://blog.go…によると
>(国連の自由権規約)委員会は、表現の自由と選挙運動の自由が不合理に制約されていることを危惧する。
>公職選挙法は、戸別訪問を禁止し、公示前のビラの枚数や種類に制限を加えているが、問題である。
>また、政治活動家や公務員が民家の郵便受けにビラをまいたことで、住居侵入や国家公務員法違反で逮捕され、起訴されたことも問題である。
ナチス・ドイツで”表現の自由”を巡ってヒトラーらに抵抗した人々もこの表現の自由を追い求めたのです。
ですから私は国連の自由権規約委員会が上記のように危惧することに全面的に同意します。
それで、一般的な”表現の自由”と”性”表現の自由を分けて論議しようではありませんか?
「66」 ”性”表現の自由を「規制」する推進派がやろうとしていることは、それを提唱する人々を「思想犯として捕まえて刑務所に入れる」ことを目的としているのでしょうか?
どうぞ論拠をお示しください。
「67」 貴方の、「性暴力的なゲームソフトの制作の自由を主張すること」は「表現の自由を求めるために国家権力と戦ってきた」崇高な活動とは違うという意見には賛同できません。
ともに同じ「表現の自由」であり、両者はつながっているのです。
「性暴力的なゲームソフトの制作の自由」が奪われれば、やがては多くの犠牲を払って、国家権力と戦って手にした表現の自由を失うことにつながるのです。
“性”表現の自由、とWikiが言う>民主主義にあっては、政治上の意思決定は終局的には市民によってなされ…るために十分な情報とそれに基づく議論が必要とな(るが、そのために)表現の自由は必要不可欠な権利である。いわば、表現の自由は、民主主義の根幹をなしているのである<との表現の自由は差異があると考えます。 あなたが「同じもの」にしようとしている様に思え、危険をさえ感じます。 どうぞ私の不安・心配を解いて下さい。
まず第一に、性だけ別にする理由がないこと。
第二に、表現の自由は政治に関わる言説のみではなく
創作等の、自己発現の分野として広く認められるものであること。
政治的言説以外は表現の自由はないというのは誤りです。
satahiro1さんがおっしゃるとおり差異はあると思いますが
だからといって他の表現の自由をないがしろにして良いということにはなりません。
第三に、色々なところで指摘されていますが
これは良い、これは駄目という表現の線引きができないこと。
これが挙げられます。
そしてそれらを含めて表現の規制は非常に危ういものであること。
これは歴史から学ばれます。
表現の自由は無制限ではない、ということは良く言われます。
私も現実的に既にされていることも含めそれ自体に反対するつもりはありません。
ですから、始めに書いたとおり発信される媒体(範囲)によって
可否があることになると思います。これらは松本氏の文と重なります。
しかしながらそれらは慎重に慎重を重ね行うべきであり、また不可逆的に行うものでも
ありません。自分は外において、自分の影響しないところまでならいいだろう、という
安易な雰囲気も多くの方から著しく見て取れます。
ましてや「国家権力」が表現の自由を制限する場合などはそれは
必要最小限度でなければなりません。
さて、ではここでこの問題に熱心な所謂規制推進派の方たちは性表現、に関して
「禁止する」「刑務所に入れる」ということが行われるべきと言うわけですが、
本当にそうでしょうか?
例えば、非道徳的な行いを描いたものを大人が見るのと、
社会常識が備わっていない子どもが見るのでは違いがある。
発信者が発信する内容も本当に「こういうことをやりなさい」という
内容のものは今国内の非道徳を描いたものに限ってもほぼありえないように思う。
非道徳的なものを冷静に受け止められるためには
大人であることの確認と、添えられた言葉の内容、流通のあり方などが
流量調整の弁のように作用する。
私としては、それこそが社会との調整であって
そのあり方(所謂ゾーニングなどを含む)を考える議論は大いにすべきと思いますが、
昨今の規制推進派の「根絶やしにする」という何とも言えない
異形の形相を持った過熱にはとてつもない危険さ、を感じずには居られません。
これは本当に怖いことで、これに関しては決して「弾圧」といっても大げさでもなんでもないと思います。
「調整手段」を考えることさえも燃やし尽くすのですから。
長々と書きましたが、一番申し上げたいのは
「存在の禁止」ではなく「それ相応の存在の仕方」があるだろう、
ということです。
表現の分野を物理化学的な麻薬などと一緒にするのはナンセンスということです。
「他の人々への尊厳を踏みにじるような性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ」もアルコール・タバコ、そして麻薬類と同じ作用を私たち人間に及ぼします。
>表現の分野を物理化学的な麻薬などと一緒にするのはナンセンスということです。
思春期以上の男性であれば誰でも、何らかの「写真・絵画」を見ることで”生理的な反応”を自分自身が起こす、ことを認められるでしょう。
また大方の女性もそのことを認められるに違いありません。
これは視覚による外部からの影響を受け、体が反応する実例です。
同じようにアルコール・タバコ、そして麻薬類を経口であれ、静脈注射であれ、体内に摂取すれば、人体の動きが緩慢になったり、幻覚・幻聴をもたらします。それでそれらの物質に規制が掛けられているのです。
>「存在の禁止」ではなく「それ相応の存在の仕方」がある
それで、「他の人々への尊厳を踏みにじるような性暴力的な映像(ポルノを含む)やゲームソフト、マンガ」もアルコール・タバコ、そして麻薬類と同じように扱う、コンセンサスが社会にできたです。
創作物に、「正常な判断力を持った大人」が
自分の意思と反して正常な身体的機能及び判断力を大きく損なう体に
変えられる効果は認められていません。
正確には、大人だけではなく子どもでもそのような効果は
認められてはいない(結果は色々出ていて定まらない)のですが、私が「子どもに対して見せるもの」に関してはある程度の制約があって仕方が無いと考えるのは、そのような理由ではなく、
知識が不十分であるため事実でないものを事実と誤解したりする可能性が高いため、あるいは責任能力の問題で責任を負いきれない
(見てショックを受け後で後悔するなど)理由が考えられるからです。
ちなみに私は性暴力のゲーム類のものはやったことないですが、
表現物を法で禁止することの危険性、ならびに冷静に考えたときの
発想のグロテスクさ、適用範囲による暴走は共通すると思うので
書きました。以上です。
余談ですが、酒(アルコール)を禁止しろって言う人ってあまりいませんよね。自分の理解できないものを悪いイメージのみを肥大化させて
必要以上にモンスター化していませんか?