戦略的思考と憲法九条 ―中川信博―

中川 信博

―戦略的行動がなぜ出来ないのか―

アゴラでも度々取り上げられている「戦略的行動がなぜ出来ないのか」ということですが、日本では「戦略」という言葉の意味が、本来の「strategy」より広い意味で使われていることにその原因があるのではないかと思います。私達、戦略を学ぶものにとって「戦略 strategy」は通常「軍事戦略」のことを言っております。しかし昨今この「戦略」がビジネス応用されるに至ってニアンスが広義になっていると思います。サッカーの世界大会のことを「ワールドカップ」と呼び、「サッカーのワールドカップ」と言わないように、私達は、通常「戦略」は「軍事戦略」のことを言っております。


―戦略とは―

米国の戦略研究家のコリン・グレイは「政策と目的を橋渡しするもの」と定義し、英国の軍事思想家リデル=ハートは「戦略は政策に奉仕しなければならない」と言っています。つまり戦略とは政策があってはじめて機能する概念です。為政者が―経営者が―、政策の中に盛り込んだ目的を実現する為に、ルールにのっとって―あるいは破ってでも―、達成させる方法論が戦略だと言えます。リデル=ハートは戦略をさらに大戦略と戦略に区分しています。

戦略論の古典「戦争論」でクラウゼビッツは「戦場は闇である」とし、「戦略は闇のような戦場で光を見出す方法論のようなものだ」というようなことを言っており、勘や経験では拭えない闇の恐怖に打ち勝つ為、洗礼された合理的な理論に裏打ちされた「戦略」の重要性を指摘しています。

―囲碁と将棋と地政学―

少し話がそれますが、私は下手の横好きで将棋を指します―将棋サイトで4級程度です―。囲碁と将棋の大きな違いは結果―目的―の違いにあります。囲碁は「目」の多いほうが勝者で、先後でハンデをつけます。最近では後手が六目半のハンデになっています。石に優劣はありませんが、一度死んだ石は甦りません。将棋は王―玉―をめしとったほうが勝ちです。先後のハンデはありません。また駒は優劣があり、役割が変わります。相手方にめしとられた駒は再度相手方の戦力として再投入することが出来ます。この二つのゲームを地政学的に考えますと「ランドパワー(陸軍)」と「シーパワー(海軍)」と言えないでしょうか。囲碁は面取りゲームで歩兵は死んだら使えません。極めて「ランドパワー」的です。将棋は決戦ゲームで駒は船のように再利用が出来ます。敵の旗艦もしくは補給基地を破壊すれば降服です。こちらは「シーパワー」的です。

おそらく元々同じようなゲームが目的の違いによって道具が変化したとは言えないでしょうか。一方は面で勝敗を決するとし、一方は特定の石―駒―を取得したら勝ちとしたところから盤面が増えたり、石が駒に変化したり、さらにその駒に優劣をつけるという「戦略」の結果がいまの囲碁と将棋の形とは言えないでしょうか。そしてその「戦略」を囲碁では「定石」と言い、将棋では「定跡」と言っています。

―最新戦略論―

話を戻しますが、戦略研究学会の定例研究会で昨年、北村氏が講師をされた研究会に出席しました。氏は米国海兵隊の外注シンクタンクで仕事をされていて最近、「アメリカ海兵隊のドクトリン」を上梓されました。氏によると第二次大戦を勝利した米軍はベトナム戦争で、手痛い敗北をすることになりました。特に米国海兵隊は主力として戦いましたので、その痛手は大きかったようです。その後冷戦終結後、海兵隊は「ドクトリン」―大戦略―の見直しにかかります。その結果、湾岸戦争では海兵隊は戦略的成功を収めます。

そのエッセンスはと言いますと、それは「maneuver」であります。訳語としては通常「機動」と訳しますが、「機動」とすると時間的、空間的な意味合いが強くなりますので、北村氏は特に「機略」と言う言葉をその訳語にしました。よって「Maneuver Warfare」を「機略戦」としています。それまで米国各軍は―特にベトナム戦争当時は―クラウゼビッツが提唱する壊滅戦論者(Attrtionist)がまだまだ主流でありました。

壊滅戦―消耗戦―とはクラウゼビッツ的に表現しますと「敵の防御力の徹底的破壊」です。敵の3倍の兵力を集中、包囲殲滅する戦い方であります。ベトナムで米軍はまさしく敵に対し圧倒的兵力、軍備力、科学力、政治力をもって戦いますが、ついぞ敵の撃滅はおろか降服さえも勝ち取ることが出来ませんでした。その反省から「Maneuver Warfare」は考えられたのだと言われています。

「Maneuver Warfare」では「敵のCG(Center of Gravity)を発見し、そのCV(Critical Vulnerability)への集中攻撃」が肝となります。敵の防御の重心を攻撃するのではなく、その重心を支える能力(Critical Capability)の脆弱性(Critical Vulnerability)へできれば直接的攻撃ではなく、間接的に攻撃を加えること―言い換えれば敵の防御力の根拠を奪うこと―を主眼におくことです。たとえばある国の海軍が非常に優勢であったと仮定します。そしてその海軍の中でも4隻の潜水艦が優秀だと判断します。そして潜水艦隊は非常に有能な司令官に指揮され、通信で集中的に指示を直接仰いでいるとします。このような状況で、Attrtionistあれば優秀な潜水艦8隻と駆逐艦4隻の計12隻の艦隊を派遣して敵の4隻の艦隊を撃滅しようとします。一方、Maneuveristであれば敵の司令官の暗殺か通信手段の破壊を考えます。味方の被害を最小限にし、経済効率を上げながら目的を達成する、最短最良の方法―戦略―が「Maneuver Warfare」とも言えます。

同時に空軍パイロットのボイド大佐が空中戦における自身の経験から提唱した「OODAループ」―ヴォーダループ―と言う意思決定理論を組織、個人レベルまで徹底して導入しました。。それは情報収集―観察(observation)―、情報分析―状況判断(orientation)、意思決定―攻撃方法決定(decision)―、行動―攻撃実施(action)―、そして新たにまた情報収集に入ると言う、流動的な戦闘における意思決定のサイクルです。この「OODAループ」を「Maneuver Warfare」に取り込んで体系化させたものが「最新ドクトリン」です。

―米国の学生は海兵隊のドクトリンを学んでいる―

私は大学で学んでおりませんので良くわかりませんが、日本の大学の経済学部などではもちろんゲーム理論やOR(Operations Research)を勉強するとは思います。しかし前項のような生きた戦略論にはおそらくふれる機会はなかなかないと思います。北村氏は海兵隊の外郭団体で海兵隊戦略の策定にかかわりながら、大学でも講座を持っているとのことです。その講座には全米からMBAはじめ未来の為政者、経営者達がこぞって生きた戦略論を学びに来るようです。良い悪いは別として戦略論はリアルポリティークと密接にかかわります。そして政策と戦略をはっきり区別し、さらに戦略が政策を覆い尽してはならないと教えられます。

たとえば、ある国が国民生活の安定と発展―この場合の目的―のため戦争を始めたと仮定します。戦略側は予算配分を勝利に不可欠だからと要求します。そのため税はあがり、国民生活は困窮したとします。そうなっては当初の目的である「国民生活の安定と発展」を逸脱していますので、よって予算配分―増税―しなければ出来ない戦争は成立しないことになります。さらに言えば戦争をする政策そのものがその目的と合致していないので不成立となります。

戦略側は政策側へ助言はできます。政策そのものが戦略側が実行不可能であると判定した場合は政策実行を拒否できます。よって政策側は戦略側を納得させる為に理論的に実行可能であることを証明しなければなりません。そこで政策側はアカデミズムで証明されている事実―学問―に依拠した政策を立案しようとすることになります。これらの戦略論の基礎を経営者や為政者を目指す若者のみならず、多くの学生が気軽に学んでいるということです。

―戦略的思考と憲法九条―

リアルポリティークや地政学に依拠する戦略論を学ぶことは学問的成果に対し敬意を表し、それを取り入れた政策を立案しようとすることにつながります。それはクラウゼビッツが言ったように「戦場の闇」に対し責任をもって立ち向かわなければならないからです。過去政策側と戦略側が一体となった政体が出現して人類に一定の成果と未曾有の災厄をもたらしました―アレキサンダー、フリードリヒ、ナポレオン、ヒトラーです―。これらは個人の独裁という政体で実現しましたが、我国の政策と戦略の一致は「官僚」という組織体によってなされました。それは一定の成果を出しましたが、近年ほころびが目立ち始め―質の低下なのでしょうか―、崩壊寸前です。

官僚が政策の実行者―戦略者―であるとの自覚があれば、官僚は政策立案に助言はしますが、政策自体を立案しようとはしないでしょうし、決定にはかかわらないでしょう。また政治家が政策立案者としての自覚があり、責任ある政策を立案をしようとすれば、アカデミズムの成果を取り入れた政策を立案せざるを得ないと思います。

残念ながら我国は為政者、官僚、国民を通して「戦略的思考」を理解していないと感じています。今回の金融危機に際してもこのアゴラにおいても、他のサイトの専門家も押しなべて「財政政策へ不同意」を表明しておりました。しかし日本のみならず欧米でも赤字国債発行に依拠した財政政策が採用され実施されています。

また一方、地政学―リアルポリティーク―の成果や安全保障の研究者が押しなべて、極東における海洋戦力と核兵器のバランスに警告を発しているのもかかわらず、為政者は憲法九条を変更しようと国民を啓蒙、説得しようとはせず、また国民は署名のない「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という碑に哀悼を捧げ、空虚な非戦論に耳を傾けております。憲法九条は国民全体の「戦略的思考」の欠如の象徴と言えると思います。

アカデミズムの成果を戦略的に取り入れることが出来るようになれば憲法は改正され、規制は緩和し、国民は今より自由にかつ豊かになることでしょう。今のままでは近い将来、経済破綻をするか、軍事的攻撃を受けるかわかりませんが、日本という国家はなくなると思っております。

コメント

  1. kakusei39 より:

    仰る通りで、大学で軍事戦略を教えているのは、防衛大だけだそうです。欧米の大学では、軍事戦略の講座を持つところは数多あるのに、日本にはありません。

    (昔の陸大、海大でもオペレーションどまりで、戦略の講座はなかったようです)

     それは、反戦が進歩的であるとした、戦後の左翼勢力、特にマスコミと左翼政党や労働組合の影響が大きいと思います。友人の教授に頼まれて臨時講師として、企業戦略の話をする時に、大東亜戦争の戦略の貧しさを例に、日本人の戦略思考の貧困を説明したのですが、後日学生から大学で戦争の話をするとは何事だと書いた一文が届きました。

     戦略とはどう考えたらよいのかは、いまだに会得できたとは思えない程の、非日常的な論理的頭脳作業だと思うのですが、これは先人に教えてもらわねばなかなか到達できないスキルだと思います。

     国が滅んだり、占領されてからでは遅すぎるわけでして、まずは、私立大からでもそういう講座が開かれるように働きかけられることを切望しております。

  2. jnavyno1 より:

    >kakusei39さん

    中川です。

    コメント有難うございます。

    軍事戦略の場合重要なことは「地球を球とみる」事だと思います。我が国の企業戦略本は欧米―特に米国―の軍事戦略のエッセンスをかいつまんだようなものだと思います。

    >非日常的な論理的頭脳作業だと思うのですが、これは先人に教えてもらわねばなかなか到達できないスキルだと思います。

    先人が体験した事例をモデル化して実践に応用し、検証、そしてその経験をまたモデル化する。答えの出ない永遠の作業だと思います。