成田空港の「暗黙の約束」を破る政権交代 - 池田信夫

2009年10月14日 12:30

前原国交相の「羽田空港ハブ化」発言が大きな波紋を呼んでいる。これは専門家の間では以前から提唱されてきたことだが、成田空港には30年以上の闘争の歴史があるため、羽田の国際化はタブーになってきた。しかしこうした過去の経緯は、羽田の国際化をやめても取り戻すことのできないサンクコスト(埋没費用)であり、忘れるべきなのだ。


成田空港は、日本の公共事業の失敗の見本である。1960年代に羽田空港の混雑が問題になったとき、もっとも早い解決策はその拡張だったが、地元が騒音問題に難色を示し、埋め立て工事がむずかしいなどの理由で、運輸省は打開策を打ち出せなかった。こういう厄介な問題を回避するために新しい国際空港をつくる計画が持ち上がり、政治家が我田引水の誘致合戦を繰り広げた。

その結果、当時の自民党副総裁、川島正次郎の地元だった千葉県富里村(現在の富里市)を建設候補地とした。東京から60kmも離れた交通路もほとんどない土地に国際空港をつくることには反対が多かったが、自民党の最大の実力者だった川島の政治力で、土地の買収交渉が始まった。ところが地元の交渉が難航したため富里案は挫折し、隣の成田市(三里塚・芝山)に変更された。ここは天皇家の御料地だった農地が多く、一括して買収しやすいと考えたためだ。

しかし「天皇から賜った土地」に対する農民の愛着は強く、政府がどれだけ高い用地価格を提示しても売却に応じず、反対同盟を結成した。これに当時の新左翼が合流し、武装闘争が始まったのである。ここでも政府が撤退の判断をすればよかったのだが、成田にこだわって交渉を続けたため、成田闘争は泥沼化し、左翼の武装闘争が鎮静化した70年代になっても状況は悪化するばかりだった。1978年に開港したときも、武装ゲリラが管制塔を占拠して開港が遅れ、その後も滑走路が1本の運用が続いた。

こうした経緯をみると、問題を必要以上に紛糾させた反対派農民や極左勢力にも責任はあるが、最大の責任は成田空港が必要かどうかという根本問題を見直さないで、過去の経緯にこだわって場当たり的な対応を繰り返してきた運輸省(現・国交省)にある。そうこうしている間に羽田の拡張が進み、来年10月には4本目の滑走路が利用可能になる。前原氏もいうように、国際線を羽田にも発着させて「ハブ」にするのは当然の判断である。

これは当然のことながら、森田千葉県知事をはじめ地元の反発を呼んでいるが、羽田に国際線が発着しても、成田の便数が減ることは考えられない。成田空港は滑走路の拡張に制約があるばかりでなく、夜間・早朝の発着ができず、国際的な24時間空港にはなりえない。国際空港を成田に限るというのは、法律で決まったわけでもない「暗黙の約束」にすぎない。政権交代の最大のメリットは、こうした約束を破るメカニズムとして機能することなのである。

池田 信夫
アゴラ研究所所長 青山学院大学非常勤講師 学術博士(慶應義塾大学)

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