「政治家を鍛える」仕組みの必要性--池尾和人

2010年02月05日 10:17

以前、ダイヤモンド社の辻広雅文さんから、晩年の後藤田正晴氏(中曽根内閣時の官房長官)は「官邸主導」の考え方に否定的だったという話を聞かせてもらったことがある。その理由は、後藤田氏は多くの総理経験者を間近にみてきたが、必ずしもリーダーとしての資質に富んだ者ばかりではなく、「凡庸な」人物も少なくなかったからである。有能な人物ばかりであればいいが、そうではない者に権限を集中させるのは弊害の方が多くなりかねないから、ということだったようである。


賢明な指導者に恵まれるなら、独裁制の方が民主制よりも効率的である。しかし、哲人政治を求めても、指導者が必ず賢明であるという保証はない。それゆえ、民主制という政治制度が平均的には「よりましな政治制度」として選択されているわけである。こうした観点からは、権限配分のあり方を考えるときに、担い手の力量はどうなのか、権限と能力が見合うものになるかといった点の吟味を怠ってはならないといえる。

したがって、例えば「官邸主導」ということで、権限を官邸により集中させるのであれば、その権限に見合う能力が官邸の主(すなわち、総理大臣)にあることが確保されなければならない。官邸主導を推し進めた小泉純一郎氏は、それに見合う能力を有していたとみられるが、それは個人的資質によるものであり、いわば「偶々」のものでしかなかった。換言すると、システムとして能力確保が担保されていたわけではない。

実際、小泉以後の安倍、福田、麻生の各氏が、官邸に集中させた権限を十全に行使するにふさわしい能力の持ち主だったかは、失礼ながら、疑問なところがある。そして、それらの政権が短命に終わった理由の一端は、このところにあると思われる。要するに、小泉氏が引き上げた宰相に求められる能力のハードルを乗り越えられなかったのではないか。

以上のことは、「政治主導」についても全く同断である。政治主導の意味合いは、不明だという向きもあるが、現在の民主党政権においては、「政治家主導」という意味で解釈されているようである。選挙を通じて選出されたという点で、政治家は正統性をもっている。しかし、そうした正統性があるということと、国民からの負託に応えていくのに必要な能力をすべての政治家が具備しているといえるのかというのは、残念ながら別の問題である。

というのは、わが国においては「政治家を鍛える」システム・社会的な仕組みが十全に存在しているとは思われないからである。選挙活動を通じて、ある意味で政治家が鍛えられるというのは確かであろう。しかし、安全保障、外交、経済政策、等々に関する基礎的な素養と定見を有しているかどうかを厳しく問われるといった機会は、現行の選挙システム下においてはほとんどないのではないか。

米国においては、長期間にわたる大統領選挙のプロセスが、国家の最高指導者を鍛え上げるシステムとして機能しているようにみえる。単に人気のある候補者というだけでは、大統領選を最後まで勝ち抜くことは不可能である。他の候補との間の激しいディベートをこなす能力等も合わせて求められる。「政治主導」で行くという限り、これに相当するような政治家を鍛えるシステム・仕組みが不可欠である。

国会審議が「学級崩壊」にたとえられるような現状は、政治家の能力という問題をいやおうなしに問わざるを得なくしている。能力に裏付けられた正統性でなければ、国家運営が危うくなりかねず、当の正統性(政治家に対する国民の信任)そのものが消滅しかねない。仮にそうした事態になれば、民主制そのものが危機に陥ることになる。

官僚に関しては、東大法学部という、資質のあるものを選抜し官僚として養成する社会的装置があった。そうした社会的装置の存在が「官僚主導」を支えてきたといえる。政治家に関しても、資質と志のあるものを全国民の中から選抜し、必要な専門知識を与えるとともに鍛え上げていく社会的装置ないし仕組みが必要である。そうした仕組みなしの「政治主導」は、持続性を持ち得ず、漂流し変質していくことが懸念される。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑