サッカー日本代表の敗因はアドレナリン過剰?

倉本 圭造

前回、「サッカーだけの国」にはない本能的な難しさが日本代表にはあるが、逆に「野球も強い国だからこそのサッカーの強さ」を追求すれば他にない強みになるしそれは経済の復調にも繋がるという話をしました。

それはつまり、各人の「役割」が明確にあってしかもそれが当然のごとくみんなに承認されている野球文化と、常に色んな可能性がありえて「周りの承認」とか関係なく個人で決断し続けることが必要なサッカー文化・・・との本能的なギャップに苦しんでいる日本代表は、常に「サッカーだけの国」に比べて「意識して意識してアタマで考えて」なんとかやっている・・・という要素があり、それが「調子が良い時の瞬間最大風速的な”良い攻撃”と、緊張の糸が切れた時の突然の脆さにつながってるのではないか」という話でした。

しかし今後、サッカー自体が物凄くデータ的に分析される傾向が強まることによって、「サッカーが野球的なスポーツに近づいてくる世界的なトレンド」があることから、そこに日本代表の未来の活路があるだろう・・・・という話などについては、前回の記事を参照いただければと思います。

さて、今回はより詳しく前回のコートジボワール戦についての話と、サッカー代表チームだけに限らず最近の日本の「組織マネジメント」における「アドレナリン過剰」の問題について詳しく考えてみます。


サッカー日本代表コートジボワール戦の入場の時に、子供を引き連れて入るセレモニーがあるんですが、その時コートジボワールの選手は子供への慈しみの気持ちを見せる余裕があったのに対して、日本代表の選手はただそういうセレモニーだから・・・・というので機械的に引きずって入場しただけのようだった・・・というツイートが、沢山リツイートされているのを見かけました。

私も見ていて、試合前練習の段階で、よく言えば気合入ってる・・・でも悪く言えば雰囲気に飲まれてるというか、そもそも顔がみんな強張ってて怖いな・・・・と思ったのを思い出します。

前半に1点取ったあと、少し長いあいだ日本のペースでガンガン攻めまくっていた時間があった時に、過去の経験的に「前半のはやい段階でリードすると、その後かさにかかって攻めまくるんだけど得点はできず、その”盛り上がり”が落ちてきた時にドドドっとやられるパターンって結構日本代表にはあるんだよなあ」と思っていたんですが、まさにそのような展開・・・・になってしまいましたね。

ああいうのは、アドレナリン(闘争心・緊張感をかきたてる”臨戦態勢”のホルモン)が出過ぎなんじゃないか・・・という考えを私は持っています。子供の手を引いて入場するときに、その子供の顔が見えてない・・・ような「状態」で良いプレーができるでしょうか?

もちろん、「やるぞ!」という気持ちは大事なんですが、そういうのって高まれば高まるほど、静かに冷静になっていくような「高まり方」が大事なはずですよね。

サッカー日本代表は、いつの時代もなかなか「ちょうど良い闘争心」状態になることが少なく、

・冷静ではあるけど仲間同士でナアナアにまとまってしまって消極的にボールを回しつつ、全然シュートが打てない

・・・・みたいな不甲斐ない試合になるか、あるいは

・全力でアドレナリンを出しまくって攻撃し、たまに物凄く良い形が出せて得点できるが、その後どこかで緊張が続かなくなって、気持ちが切れたところでボコボコにされる

という両極端のパターンに陥りがちであるように、私は思っています。それは、前回の記事で書いたように、「日本人の集団の深い本能」と「サッカー文化」がオリジナルな形ではまだ安定的に結びついていないからなんですね。

今回のワールドカップでの戦い方について日本代表は、「自分たちならではの攻撃の形を表現する」ことにこだわっていますし、それが決まった時のあの「ジェットストリームアタック」的な攻撃成功の形は、いずれもっとちゃんと育っていけば「必殺技」とか「トレードマーク」とかになっていく可能性を持っているとは思います。

しかし、そのための陣形が相手の作戦で崩された時の対応の仕方とか、苦しい時間帯をどうやり過ごすかとか、あとは「そればっかりやってるより他の攻撃パターンと組み合わせた方がより効果的だよね」という話などのレベルで、「色んな柔軟な対応策」がもっとあればいいのに・・・というのは、色んなサッカー通の方の分析に共通する不満であるように思われます。

今回の試合について色んな記事を読んで、それぞれかなり「なるほど」と思ったんですけど、ただ、おそらく多くのサッカー通が共通して思うようなことは、代表監督をはじめとするスタッフの皆さんや代表に選ばれるような選手には実は「わかって」いるはずですよね。

それでもなぜ臨機応変にそれが実現できないのか?ということを考えてみると、今の代表はそこに「多少の柔軟性」をもたせようとするだけで、そもそもの「自分たちの理想の形を表現する」という意志そのものが挫けてしまいそうになるような、そういう不安定な状態にあるのではないか・・・と私は考えています。

ちょっとでも「形」を崩して「柔軟性」とか言い出すと、今最大瞬間風速的に実現している「ジェットストリームアタック」が全然出せなくなってしまう状態に、つまり物凄く消極的なサッカーしかできない集団になってしまう危険性と隣合わせの中で彼らは戦っているのではないかと感じるのです。

そのへん、いつぞやのWBCの時に見事なピッチングをした岩隈投手が試合後、「今日は霧で視界が悪くて打ち上げさせると守りにくそうだから、球種を工夫してできるだけゴロを打たせるようにしました」などと、まるで「ちょっと雨が降ってきたので折り畳み傘を鞄から出してさしました」風の何気ない口調で言っていたのとは「大きく違う雰囲気」が存在します。

要するに何かに常に「怯えている」のです。この形がダメになったら、もう全部がダメになってしまうのではないか?というような「何か」に怯えてしまっているんですね。

ニューヨーク・ヤンキースの田中将大投手が世界最高峰の世界で圧倒的な活躍をしつつもいつでも謙虚で偉ぶらない人柄を愛されているのに対して、サッカーの代表選手は(特にナカタ・ホンダ両氏の系譜に連なる人たちは)総じてビッグマウス的で、かつまだまだメジャーリーグでの日本人投手たちほどの存在感を欧州サッカーで示せている選手はいないことから、それが日本でサッカーに関わる人間の人格的クズっぷりを表している・・・・という批判をネットで見たことがあるんですが、しかしこの批判は色んな意味でちょっとフェアじゃないんですよね。

というのも、野球選手はとりあえず「マウンド」「打席」に上がらせてもらえば、他人とコミュニケーションしたり無駄なアピールをしたりする必要のない「絶対的な権限」を自然に与えられるからです。だから余計なことは言わなくても「投げるボール」「打つバット」だけで黙らせればいい。

しかしサッカー選手は、自分がどういうプレイをしたくでどういう持ち味を持っていて、おまえのこういうプレイの持ち味はこういうふうにしたらお互い活かせるんじゃないかというのを「あの手この手で」コミュニケーションしないとできない「仕事」なんですよね。

そりゃエンジニアは喋らなくてもいいかもしれんが、営業マンなんだから喋ってナンボなんだよ!という違いがここにはあるわけです。

ただ、それにしたって、サッカーの代表選手がもうちょっと「メジャーリーグの日本人投手」のような「冷静な闘争心」を持てるような「環境整備」を我々はしてあげられれば理想ですよね。

そのあたりが、前回の記事で書いた「”サッカーの野球化”の世界的トレンドをとらえた、野球も強い国だからこそのサッカー文化の醸成」ということなんですよね。

それは直接的には、日本のサッカー関係者・サッカーメディア、そしてサポーターたちの文化が今後も成熟を続けていって、それぞれの選手が「無駄なアピール」をする必要なく「自分の役割はこれだよね」的なことに余計なことに惑わされずに集中できる文脈を用意してあげられるようになっていくことで実現するでしょう。

それぞれの選手がやるべきことがちゃんと「共通了解」として文化的に成立していけば、イチロー選手が幼少の頃から「打席」という立場の確定性に守られながら自己研鑚を積んで来れたようなことが、「世界最高のサイドバックになる」というような形でのキャリア観として「同じように」成立していくことになるからです。

しかしさらにそれに一歩広げて、サッカーとは普段関係のない我々日本人の人生とはどう関わってくるのでしょうか?

私はそれこそ、「アドレナリン過剰」な文化への反省・・・・という形で日本社会のあたらしい「マネジメントのスタイル」として今後広がっていくものがあるはずだと思っています。ある意味「意識高い系」の文化の過剰さへの反省というかね。それは「グローバリズム」的なものの過剰さが世界中で抜き差しならない問題を巻き起こしている世界の、「あたらしいオリジナルな希望の提示」となるでしょう。

私は大学卒業後マッキンゼーというアメリカの経営コンサルティング会社に入ったのですが、そこで「外資コンサルティング」的に「意識が高すぎるマネジメントスタイル」の功罪について色々と考えさせられる経験をしました。

アタマで考えて、意識付けを必死にやって、状況変化を的確に捉えて、これをやるぞ、やるぞ、やるぞ!とやってアドレナリンをバンバン出しながら経営していくのは、少人数のプロフェッショナルファームが凄い高級取りを集めてやってる分には「最善のこと」のように見えるんですが、その「外側の世界」との関わりの点でいうとどうも「上滑り」しやすいんですよね。

結果として、プロジェクト期間中は盛り上がって決めたことなのにコンサルが去ってしまうといつの間にかフェードアウトしてしまったり、あるいはそれでも「結果を出すことにこだわり」すぎると、ほんの一部の人の価値を無理やり絞り出して数字は作るけれども雰囲気は凄い悪くなって落伍者も増えるし、提供するサービスがどうも「先端性は凄い高いんだけど、どうも色々ボロがあったり奥行きとか豊かさに欠ける」みたいなものになりがちです。

トヨタみたいに、高卒のギャル&ヤンキー社員さんまでが自然に毎年主体的な改善提案をして、それで製造工程がどんどんブラッシュアップされていく結果『アドレナリンなんかほとんど出てない時間に自然に積み上がるもの』でいつの間にか世界一になってしまう・・・・みたいな日本社会の一番の強みは、本当の意味での”非常時”でもない時までアドレナリンがやたら発散されてしまうような「文化」では決して実現できないわけです。

コートジボワールは前半確かにちょっとタラタラしてる部分もありましたが、日本側の集中が途切れて「お、行けるぞ?」となってからは「自然な気持ちの盛り上がり」で野生動物の狩りのようなメリハリで攻撃をしてきました。

会社集団だって、普段の日常業務がある程度うららかな天下泰平な気分でやられているからこそ、いざ非常時だ!となった時にみんなのアドレナリンをガンガン放出してバシッと対応できるわけで、常にやたらと不安感と危機感を無駄に煽ってアドレナリン過剰になっていると、ミスを未然に防ぐ余裕のある手立てもできないし、いざ!という時の危機対応力も弱くなってしまうのです。

私はこの「2つの文化の相克」を超える何かオリジナルな戦略を日本は持たなくちゃいけないと思って10年ほど模索を続けてきていて、そのプロセスの中では「意識の高すぎる仕切り」の「外側」にある「日本社会のリアリティ」を深く知らねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/07/blog-post_18.html

つまり、過去20年の日本は、意識高く常に状況判断をして、いつまでも「仮説ドリブン」で・・・というモードに「価値を置きすぎて」来ているんですよね。現状に満足せず!グローバリズムの時代に対応しろ!云々。

で、もちろん「何らかの対応が必要」なんですよ。時代とともに変化をしていかなくちゃいけない。でも、その「変化」が、「日本社会の強みの根本」である「末端の色んなタイプの人の価値」まで十二分に吸い上げられるようにする「横綱相撲の姿勢」を崩さずに実現できるか?が問われているんですよ。

しかし、色々とアホな探求を繰り返してきた結果私があなたに伝えたい「この対立を解く鍵となる視点」は、

田中将大投手に比べて本田圭佑選手が常に「吠えて」いなくてはいけないように、「グローバリズム側の事情」を国内勢力にわかってもらうタイプの仕事をしている人は、泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのように、常に何か「明快に主張している」必要があるという事情を、「野球派」的な日本人の集団が「理解して包み込んでやる」ことが必要

なんですよね。

今は結構「口汚い言葉で日本社会を罵っている論客さん」たちだって、本当は「その先」の連携が必要なことぐらい、まともな人ならわかってるんですよ。でもそこで、「攻撃的」でないと彼らの存在自体が崩壊してしまう危機ってのがあるんだってことなんですよね。

でも今後状況は変わっていくんですよ。なぜなら彼らの行動をバックアップしているご本尊サマであるアメリカだとか世界のトレンドだとか、”そういうもの自体”が変わってくるからです。

これまでのように「アメリカ的世界観」から外れたものはアメリカが爆撃して黙らせる・・・というようなことがだんだんできなくなっていく結果、「アメリカvs非アメリカ」の対立が、どちらも押しきれずに世界のあちこちで紛糾し続ける時代の中で、アメリカにかぎらず世界中どこででも、「このままじゃいけないな」っていう風潮になってきますからね。

だから、「世界最先端の意識の高い理想を抱く人たちが目指すもの」と、「日本社会の地道な安定感を生きている人たちが目指すもの」が、「結果的に同じもの」になってくるわけですね。

その「両者の発展的な連携」を考えること自体が一番「意識が高いこと」で、古い共同体が全部悪いってことにして自分だけ正義ぶるのは「意識高い」とは言えないよね・・・というトレンドが、だんだん広がって来ているってことなんですよね。

実際、20年前の「グローバリズム側」にいる人たち、ベンチャー起業家や外資系のコンサルタント、金融市場関係者なんかは、もっと単純明快に「日本的=ダメ、アメリカ的=素晴らしい」って感じの価値観で仕事してましたが、しかし今やあまりに単純な「グローバリズムの威を借る狐」は生き残れない「市場環境」に、だんだん変わってきてますよね。

それがもうちょっと行けば、もちろん外国の良い点を取り入れる提案はいくらでもやったらいいんですが、それにあたって日本社会の「良い部分を消さずに伸ばすには」っていうような配慮がないような方向の仕事は生き残れない状況になってきますから。

そしたら、「本当に自分たちの良さを伸ばせること」にみんなで集中できるようになっていって、今の色んな感情的対立もウソみたいに溶けてなくなる時代が来るでしょう。

私の著書を読んだある経営者の方が、

「倉本さんの本を読んで一番心に残ったのは、経営っていうのは、何か特別な作戦を考えなくちゃいけないというのではなくて、むしろ参加者の力をできるだけ発揮させる”場づくり”に集中しなくちゃいけないんだ、っていう原点を思い出せたことですね。何をやるか・・・ということを考えるときも、結局誰にでもできることじゃなくてほかならぬ自分の会社に参加している社員の特性から考えていかなくちゃいけないんだなと思い直しました」

とおっしゃっていたんですが、まさにそれです。

最近は色々と人手不足で、今までのように次々と使い捨てでコキ使ってればいい時代じゃなくなってきた結果、「働きやすい会社にしよう」「社員の力がもっと発揮できる仕組みをつくろう」という試みがあちこちでなされるようになってきました。

なにか「特別な作戦」をぶちあげようとするのではなく「場づくり」に集中する結果として、「今ここに実在する社員」の力を伸ばして芋づる式に自然に世界展開していく結果、「どこにもないオリジナルな作戦」も結果として生み出されていく。

そういう経済活動のムーブメントと表裏一体の形で、日本の中の「野球文化」と「サッカー文化」が本能的に融け合って、「野球も強い国だからこそできるサッカーのスタイル」が確立していくことになるでしょう。

「場づくり」的なマネジメントスタイルが浸透していくことによって、周囲の共感と承認、そしてマクロに見た経済合理性・戦略的合理性を同時に持った

「打席」

が、一人ひとりにちゃんと用意できるようになっていくわけです。

その結果「古い日本社会の圧力」から逃れるためだけに必死にから騒ぎをすることでいつのまにか築いていた自分らしさという檻の中でもがき続ける必要もなくなり、自分たちの奥底的本能である古い日本社会との連続性を確保したまま、周囲の色んな人との共感と承認をちゃんと感じたまま、我々は堂々と

「それぞれの人のために確実に用意された打席」

に立つ喜びの中にそれぞれの良さを発揮して活躍できる世界になるでしょう。

たとえ「下位打線」の選手でも、「その人が立つべき打席」に立つときにはみんなに名前を連呼してもらえるような社会が、やはり私は「良い社会」だと思います。そういう「社会の運営方法」は、「グローバリズムvsアンチグローバリズム」的な対立がさらに紛糾していくこれからの世界における「どこにもない希望」として普遍的に受け入れられるポテンシャルを持っているでしょう。

そういう視点から、日本サッカーのこれからの展開をバックアップしてあげたいですね。

ワールドカップの期間を通じて、そういう連載をネット上でやりたいと思っていますが、次回は「スター選手vsシステマティックな分析思想」という観点から考えてみたいと思います。そうやって経済・国際政治の流れと呼応する、世界の色んなスポーツのトレンド変化を概観しながら、今後の日本戦の様子を時おり見つつ、最後にその大きな流れの結果、サッカー日本代表が今後どういうプレースタイルになっていくのか・・・という話でこの連載は終わる予定です。

投稿は不定期なので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

ちなみに、この話はすでに私の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」の中で1章を割いて詳述したものを、今回のワールドカップの話題を織り交ぜながら書きなおしていく試みなので、ご興味があればそちらをお読みいただければと思います。(この記事における”両者”の存在を幕末の薩摩藩と長州藩の連携に例えて、その性格や考え方が大きく違う2つの勢力の間の”薩長同盟”の成立が、現代の日本においてもあたらしい持続的な発展への鍵となる・・・という趣旨の本です)

倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto

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