「花神」(司馬遼太郎著)の主人公、大村益次郎は大変な変わり者のガチガチの技術屋と描かれています。
家業の医師(といっても当時の百姓出身の医師で今の医師とは大違い)を継いでも、あまりにも頑なな性格であったため患者さんも来なくなったとか・・・。
その後も、下手をすると処刑されるのではないかと思うようなハラハラする場面がたくさんあり、今で考えれば一種の性格異常者だったのかもしれません。肖像画からも、脳の部分が異様に大きいのがわかります。
ところが、こと戦争にかけては天才的な技術を持っており、後の明治政府の軍事のトップにまで登り詰めました。
いかな幕末の時代とはいえ、性格異常者のような人物が自力で頭角を現すことはできません。
ここで、大村益次郎の能力を認めて活躍の場を与えたのが桂小五郎です。大村としても、「百姓出身の自分を取り立ててくれた」という信頼を桂に寄せていたそうです。
ガチガチの技術屋だったと言われる本田宗一郎氏を実務に秀でた藤沢武夫氏が支え、世界のHONDAを作り上げたという逸話を思い出した方が、少なからずおられるのではないでしょうか?
「桂と大村」「本田と藤沢」・・・上下は逆であっても、スペシャリストをジェネラリストが支えるという構図です。昨今、AIが普及すればスペシャリストの多くが職を失うと予想されています。
この点に関して、私は二つの方向性を考えています。
まず、脳には「汎化」という働きがあり、幼少期からひとつのことに集中した子供は他の分野でも秀でることができるというものです。
ひとつの分野を極めた人が他の分野でも活躍することが多いのと同じでしょう。
だとすれば、ひとつの分野を極めたスペシャリストは、その分野の仕事がなくなっても別の分野で大成する可能性が十分あると考えられます。
もうひとつの方向性は、ジェネラリストといっても(人事異動で動くまでは)限られた分野の仕事に毎日取り組みます。
「営業」「人事」「総務」・・・等々。
日々の仕事に一生懸命取り組んでいれば、それぞれの分野のスペシャリストになれるはずです。
「営業のスペシャリスト」「人事労務のスペシャリスト」等々。いわば「資格を持たないスペシャリスト」です。
このように考えると、スペシャリストとジェネラリストの境界線は極めて曖昧で、「資格を持たないスペシャリスト」の方が「資格を持ったスペシャリスト」よりも当該分野で秀でているというケースは多々あります。
「脳の汎化」の方向性も「資格のないスペシャリスト」の方向性も、いずれもアリになるのが近未来の姿ではないでしょうか?
要するに、資格の有無やスタート地点にかかわらず、日々の仕事に真剣に取り組み、新しい方法を工夫し、生産性を上げる努力をしていれば、どの分野でも通用するスペシャリティーを持ったジェネラリストになれるものと、私は考えています。
AI時代に必要な人材は、このようなスペシャリティーを持ったジェネラリストだと思うのですが、いかがでしょう?
編集部より:このブログは弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2017年9月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。