ぼくが通った京都の高校は、たまに人物が出ます。怪優・山村紅葉は同級生。先輩には、鷲田清一 元大阪大学総長、ずんずん調査の堀井憲一郎さん、裏千家家元の千宗室さんら。その千宗室さん、新幹線で入手できる雑誌「ひととき」にエッセイを連載しています。
その一篇「貸本屋の午後」。50年ほど前、堀川鞍馬口あたりに狭い貸本屋があった。どの本も装丁はくすんでいた。天井は低く、煤けている。そそくさと出た。本は死に瀕しており、怯えた。数年後に店は消えていた。だから貸本屋を利用したことがなく、人生の忘れ物の一つ。・・・というものです。
先輩、ぼくは利用したことがあります。50年ほど前、洛北は高野川沿い、山ばな平八茶屋あたりに狭い貸本屋がありました。どの本もくすんだ油紙でカバーがしてあり、薄暗い店内。何を借りたかは覚えていません。貸本を借りるという、近所のお兄さんたちの行為に、低学年ながら背伸びして参加してみたかったのです。
でも、店のおばさんが「べいこくつうちょうもっといない」と言う。戸惑いました。米穀通帳。何のことかわからない。いっしょにいたお兄さんたちに聞いたら、家にあるやろ、おかんに頼んでこい、という。それムリや。ウチにカネになりそうなもんあらへんの知ってるやんか。
そやな。とお兄さんたちが代わりに借りてくれました。だから正確にはぼくが借りたものではありません。貸出票にぼくの名前は残っていません。でも先輩、ぼくはかろうじて貸本屋文化の香りをかぐことができました。
高野慎三著「貸本マンガと戦後の風景」。
1950年代に最盛期を迎え、60年代に衰退した貸本マンガ文化を総覧する貴重な資料です。紙芝居と映画との間をつなぐ、わずか20年の寿命だった貸本マンガ。そしてそれが日本のマンガの土台を築いたという証言です。
貸本マンガに先立つ闇市の古本屋では、初期はよい子のための健全なマンガだったそうです。でも社会は荒れ、都市では勤労青年が娯楽を求め、底辺の抑圧された若者向けに貸本マンガが成立しました。映画に人気を奪われるまで、需要に応えました。
手塚治虫は無論、水木しげる、小島剛夕など人気作家となるかたがたも貸本マンガ屋に作品が並びました。「影」「街」といった劇画雑誌には、さいとうたかを、辰巳ヨシヒロらが参加しました。そして商業マンガ誌と、白土三平、つげ義春などガロ系との太い幹に移行していきます。
ぼくが本書に好意を寄せるのは「つげ忠男」に多くの紙幅を費やしているからです。人気作家ではありません。つげ義春さんの実弟で、主に70年代、血液銀行などを舞台に「無頼平野」「屑の市」「ささくれた風景」「雨季」など暗く繊細な、奇跡のような名作を残した、ぼくが最も好きな作家です。
本書によると、60年安保当時、つげ忠男さんは20篇もの貸本マンガを描いたそうです。ぼくは読んだことがありません。少女漫画も描いていたそうです。存じませんでした。そうした多くの下積み、試行、創作があって、後の名作がある。無論その全てがその作家の姿ですが、消えたものも多い。
いや、貸本マンガに作品を寄せた多くのマンガ家が歴史に名を残さず消えていった。貸本マンガというジャンル自体も消えようとしています。あと20年もすれば、貸本マンガは記憶さえ失せていくでしょう。
隆盛したマンガという分野を底辺で支えた大切な文化、きちんと評価しておきたいものです。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2017年12月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。