制度・政策・発展の構造的円環 <歴史的アプローチ>による綿密な省察に驚く
はしごを外せ―蹴落とされる発展途上国
著者:ハジュン チャン
販売元:日本評論社
(2009-10)
販売元:Amazon.co.jp
貧富や格差への有効な処方箋を講じる作業は、経済学に限らず社会科学に従事するもののいわば普遍的テーマといえよう。幅広いフィールドで精力的に活躍し続けるケンブリッジ大学の若き俊英による本書は、現在の発展途上国にとって、「良い政策」と「良い制度」はいかなる(べき)ものかという論争の絶えない難題に対し、先進国の過去の発展途上プロセスの膨大な歴史的事例を綿密に概観・省察することから解きほぐす本格作品だ。450近い本文脚注は多岐に及ぶ学術文献によって隅々まで裏付けられる。
抽象的で演繹的アプローチを重要視する主流派経済学のスタンスと大きく異なり、帰納的で<歴史>的なそれを尊重する学問精神の背景には、「なぜ先進国は、彼らの歴史的発展にそれほど無知なのであろうか」(251頁)という実直な問題意識が貫流している。両輪をなす<開発政策>と<制度発展>をめぐる本書の議論は総じてなかなか含蓄に富む。
前者の<開発政策>論の直截の帰結は、速度・深度・精度の側面で微細な差異を伴うものの、あらゆる先進国(英米独仏、日本・東アジアNICsなど)はそのキャッチアップ期に積極的な産業・貿易・技術(ITT)政策を活用していたという顕著なアナロジーが存在することだ。「近代的保護主義の母国」と称される米国は、リカードら古典派経済学者の学説に基づく「ブリティッシュ・システム」とは異なる独自の「アメリカン・システム」が政策基盤であった。自由放任主義的処方箋(いわゆる今日の「良い政策」)による先進国の経済発展というシナリオが<歴史的神話>であることを看過し、発展途上国にそれらを強要する論理はまさに「はしご外し」にほかならず、こうした事態は双方にとって中長期的にみて望ましいものではない。
産業構造発展が様々な政策手段(関税・補助金、自主規制による幼稚産業保護、社会資本整備、公的投資・人材育成計画、官民協力体制など)のセットによって実現しえたことは、そのための「万能モデル」が不在であることを示唆する。これは消極的結論というよりは、「万能モデル」の存在を強く信じ、それを機械的に発展途上・旧共産主義諸国に移植したことの社会的損失を鑑みれば、むしろ多元的な発展プロセスのあり方を容認する積極的洞察だろう。
後者の<制度発展>論はどうか。分析単位としての制度(ミクロ)と経済発展(マクロ)の相互作用性について、たとえば企業統治における有限責任制や破産法など、経済発展段階に呼応してそれらのあり方をめぐる社会通念・認識もまた変化し、「リスクの社会化」を促進する実効力を伴う重要な機構として定着してゆく興味深い知見が示される。文脈こそ違うが、1980年代に欧米で高く評価された日本型経営システムが新自由主義グローバリゼーションの時代にはその脆弱さが指摘され、世界金融危機後の今次は欧米型システムの妥当性が疑問視されるという制度の歴史的転回の様相を想起させないか。知的所有権体制の国際化も注目すべき今日的宿題である。
財産制度と官僚機構という特定の制度同士の相互規定性は両者の同時発展を要請し、それゆえに生じうる制度発展の困難さ・遅滞さも具体的に描き出される。発展プロセスに必然的に伴う多様な時間(世代)性が引き起こす不均等性・不可逆性だ。一連の論議は、アングロ・サクソン型制度(今日の「良い制度」)を唯一の「ベスト・プラクティス」とみなす支配的見解への強固な反論を含意しており、上述内容と密接に重なり合う。<制度発展>論は「制度の理解の発展」論をも含むが、諸制度の複合化・多層化によって社会経済システムは成り立つとする制度主義的把握の意義をあらためて実感できよう。「希少性の経済学」とは異なる制度主義的経済理論が必要なのだ。
未来に向けて歴史から汲み取るべき多くの教訓があることは誰でも知っているが、その「教訓」(実像というべきか)を的確に導き出すことは決して容易でない。豊かな歴史認識は頑健な理論構築に寄与しうるのであり、われわれはここに優れた手本を得た。経済的歴史小説としての風味も有し、大いに勉強させられる。新自由主義の破綻が声高に叫ばれる昨今、<総合的社会科学>論ともいえる著者の学術的志向性はより輝きを増していよう。訳文はまこと周到。
追記:なお本書はハジュンにとっての初邦訳だが、続く『世界経済を破綻させる23の嘘』(徳間書店)が刊行され反響を呼んでいるようだ。
(塚本恭章 愛知大学経済学部専任教員(2011年4月から)/日本学術振興会前特別研究員博士(経済学:東京大学)
コメント
思考パターンが文体で固められているような書評ですね。