深刻な経済危機であらゆる物資が不足しているベネズエラから市民が脱出してラテンアメリカ域内を始め北米そしてヨーロッパに移住を求めて大移動の旋風が巻き起こっている。
移動者の数は230万人とされているが、それは昨年からのことで、2015年から数えると凡そ400万人が国外に脱出したという。それはベネズエラの人口の12%に匹敵する。
ベネズエラ人の国外移動はシリアの内戦とは異なり、経済危機によるものであるが、ここで新ためてその原因について触れておく必要がありそうだ。世界で原油の埋蔵量では最大の国がなぜ経済危機に陥っているのか常識では理解できないからである。
ウーゴ・チャベスが貧困層の救済とキューの革命に影響されて社会主義の実現に向けてクーデターを敢行。1999年に大統領に就任すると社会主義革命を彼は「ボリバル革命」と称して国内の主要産業を次々と国営化して行った。ボリバルとは彼が尊敬する大コロンビア(ベネズエラ、コロンビア、パナマなどを一つの国家とした)の建国者シモン・ボリバルを尊敬することから彼の名前にあやかったものである。
チャベスは暴利を貪る企業を許せず、企業家の利益も一定のものにしようとした。それに抵抗する企業は直ちに国営化して行った。国営化から逃れた企業家は利潤追求を否定されて企業経営に関心を失い会社を閉鎖して行った。この時点から国内での物質が不足する現象が起きるのである。原油の価格が高く輸出が好調な時は政府は余る歳入から反米主義を掲げてそれに参加する諸国に安価な原油を提供するなどした。
ところが、原油価格が下落して行くと政府の財政は一挙に苦しくなるのである。しかも、外貨の獲得源の95%以上が原油の輸出によるもので、それで得た外貨を国内で不足している物資を輸入する資金に充てるというシステムが維持できなくなるのである。
しかも、ベネズエラの経済を支えるベネズエラ国営石油会社の経営はチャベスに忠実な軍人に任せていたことから、経営は次第にずさんな経営になって行った。それに加えて賄賂は横行。輸入価格を釣り上げて、正規の価格との差額をチャベスを囲む支配層で分配するといったシステムが横行。
物質を輸入する資金も不足するようになり、市場は物不足に陥るようになった。それを誤魔化すべく政府は紙幣を乱発。それがハイパーインフレを導く要因となっていった。
また、外貨の不足が顕著になると、外国の航空会社がベネズエラ国内で上げた売上をドルに両替することも禁止されるようになり、外国の航空会社はベネズエラへの乗り入れも中止するようになった。ベネズエラの孤立化である。
しかも、野党の結束は弱く、マドゥロ大統領の独裁政治を許してしまう結果となっている。マドゥロに影響力の強いキューバのラウル・カストロの指導もあって、マドゥロはベネズエラのキューバ化を目指しているという。
ベネズエラの現状に堪えられない者は国外に脱出せということなのである。それは同時に野党の勢力を弱める策略になっている。そして、ベネズエラをキューバのように孤立させようとしているのである。しかも、キューバと同じように外国からの支援はロシアと中国を柱にした限定されたものにするわけだ。
人口の12%が国外に脱出しているということで、首都カラカスでは車の渋滞がなくなっているという。しかも、自動車の部品も不足していることから修理も容易ではない。マンションの照明も点灯していない所が結構見られるようになっているという。そこの住人は脱出して誰も住んでいないという証拠である。
住民の減少で殺害件数も昨年比2430件少ないという。また、車の盗難も30%減少したそうだ。
営業店はコロンビアペソかドルでの支払いを要求するようになっているという。ベネズエラのボリバル通貨はまったく信頼性がないからである。新通貨ボリバル・ソベラノになってもマドゥロ政府への信頼は全く存在しないので、物不足が続く限りハイパーインフレは続く。
停電と水不足も頻繁にあり、買い物も以前は4時間待ちが現在は8時間待たねばならない状態にまでなっているという。自動車のガソリン給油も4時間待ち。
ベネズエラにまだ残っている住民の40%は出来るだけ早い機会に国外への脱出を考えているそうだ。
また、医薬品不足と保健衛生に不備が目立つようになっている現在、はしかが流行っているというのだ。今年は既に感染している患者は3545人、疑陽性者は5300人いると報告されているそうだ。そして今年に入って6月まで35人がはしかで死亡したと報告されている。
ベネズエラの混沌とした状態は短期に回復することはない。ベネズエラにまだ残っている政治評論家のエドゥワルド・フローレスは、インフレは今後も上昇し続け購買力はさらに弱くなるとした上で、「経済的に見てこの先2-3年でベネズエラは存続し続けることは不可能になる」と述べている。即ち、国家の破綻が来るということだ。
一方、現状のべネズエラに堪えられない市民の多くは国外に脱出している。ベネズエラからの脱出の当初は比較的資金的に余裕のある人たちが主流であった。飛行機でヨーロッパに移住するというのもその一例である。しかし、一昨年あたりからそれまで国外脱出など全く想像していなかった市民までそれを実行せざるを得ない状態になっているのである。食料難、職場の不足、ハイパーインフレとなって全ての市民の生活を苦しめるようになっている。5年以上続いている経済の急激なる後退で多くの市民にお金の余裕がなくなっている。だから彼らが脱出する手段も歩行を選ぶのである。
それについて、ベネズエラ中央大学トマス・ペレス・ブラボ教授は、「彼らが歩いて脱出を試みるのは航空チケットを購入するためのお金を貯めるのに30年かかるからだ」と指摘して貨幣価値の大幅な下落を示した。
脱出して向かう先は大きく分けて二つある。隣国のコロンビアとブラジルである。2000キロの国境を共有するコロンビアにはこれまで100万人がベネズエラから入国しているという。現在も日毎に35000人のベネズエラ人が入国しているという。歴史とは皮肉なもので、半世紀前にはコロンビアからベネズエラに内戦を避け職場を求めて500万人以上のコロンビア人がベネズエラに移民したのである。当時のベネズエラは原油の輸出で経済は潤っていた。
コロンビアに入国したベネズエラ人の50万人はそこに留まり、他は隣国のエクアドル、或いはその先のペルーまで足を運ぶのである。更にチリかアルゼンチン又はウルグアイまで足を伸ばす者もいる。昨年そして今年とベネズエラ移民が急増したのはペルーである。ペルーにはこれまで凡そ32万人のベネズエラからの移民が在住しているとされている。ところが、昨年は33000人、今年上半期だけで90000人が移住許可を申請しているというのである。ペルーを選らんだのは法的手続きが比較的容易だからというのが理由だという。
ところが、ベネズエラからの移民が急増していることを警戒したペルー政府は8月25日以降の入国にはパスポートの提示が必要としたのである。これにはベネズエラ人は慌てた。社会が混沌としているベネズエラではパスポートの発給を申請しても入手は殆ど不可能という状態にあるからである。
身分証明書だけで入国できるタイムリミットの前に入国できたアンジェリ・ベルガラさんは「私は2年前からパスポートの発給を待っていたがまだ入手していない。尋ねても、2週間で解決するという回答を貰ってすでに2年が経過しているそうだ。それ以後も待っていたが、ペルーの入国には8月25日からパスポートが必要だという情報を掴み急きょ出発することにした」とAFP通信の取材に答えたそうだ。
エクアドルも入国にはパスポートの提示を要求したが、事態を重く見た同国の法廷は政府のこの規定の却下を命じ、それに代わる案を45日以内に提示するように要求した。
エクアドル政府は親切心からか、或いはエクアドル国内に留まられることを避けようとしたのか、32台のバスを手配してペルーに入国したい人達を8月25日のリミットまでに間に合うように彼らをエクアドルとペルーの国境通過地まで送ったという逸話もある。
一方のブラジルへの入国ではベネズエラとの国境の都市パカライマ市でベネズエラからの移民者がブラジル人の商人に窃盗し損傷を加えたことで地元民が報復手段に訴えてベネズエラの移民が滞留しているテントを燃やし、恐れたベネズエラ移民1200人が帰国するという事件があった。その数日後に30台の車からクラクションを鳴らして白い風船を持った地元民が騒動を起こさないようにしようと呼びかけたそうだ。
パカライマ市は12000人の都市で、ベネズエラからの移民が急激に押しかけて来たことに対応できる体制が出来ていないという問題を抱えているのである。しかも、自国の経済も良くないということで地元民にとって二重の負担になっているのである。それでもこれまで127000人のベネズエラ移民がそこを通過して、そこから210キロ離れた大都市ボアビスタなどに歩いて途中襲われることを恐れながら移動しているのである。
パカライマ市ではベネズエラの移民にボランティアで朝食を提供しているスペイン人ヘスス・ボアディーリャ神父もいる。1年半前から原住民80人余りに食事を提供する活動から始めて現在では毎日平均して1600人のベネズエラ移民に朝食を提供しているそうだ。お金も住む場所もない彼らにとってそれがその日に口にする唯一の食事になっているという。神父を手伝っているのは当初彼の世話になった原住民だそうだ。
ベネズエラを出てどのルートを選ぶにせよ、移動途中は武装ゲリラなどに襲われることを恐れ、また山越えで寒さに震えながらの移動もあるという。バスでの移動も考えられるが、今の彼らにとってバス料金も高価なものになっているのである。だから歩いての移動しかない。
しかし、目的地に到着してもそこで生活できるという保証もない。ミルソン・プラトさんのように2か月と22日間ペルーで仕事を探して家族に仕送りできるようにしようと努めたが、その夢は叶わないと判断して帰国することにしたそうだ。