▲米国の国家戦略立案に寄与する国防総省(Wikipediaより、アゴラ編集部)
今こそ敵性国家の弱点の発見を
書店であまり期待もせずに、昨年末に買って読んだ本の題名は、「日本の敵 よみがえる民族主義に備えよ」でした。元外交官の宮家邦彦氏の新書です。よくあるタイトルです。「聞き飽きた指摘、主張だろう」と思いながら、読み始めてみると、趨勢分析に基づく長期的戦略思考の重要性をくどいほど繰り返しています。
そこへ北朝鮮が核実験(水爆)を実施したとの発表がありました。政権、言論界、メディアをあげて、激しい批判の嵐が大展開されるでしょう。私は今こそ、長期的視点に立ち、北朝鮮を含め、政権の意向に左右されずに、日本の敵性国家の将来を見通すことがもっと大切であると思います。
この本の冒頭に、印象的な人物が登場します。94歳になる米国随一の戦略思考家、アンドリュー・マーシャル氏です。「73年以来、足かけ43年間、米国の脅威となり得る国との戦略的対立、競争の長期的趨勢ついて、軍事に限らず、総合的視点から分析、評価し、国防長官に提供してきた」とあります。
国防総省に総合戦略評価室
「足かけ43年」、「いま93歳」というから驚きます。さらに「長期的趨勢」、「総合的視点」といいます。日本の政治、外交、学会、メディアに欠けている視野です。国防総省にネットアセスメント室(ONA)という部局があり、つい最近までそのトップを務めてきました。
ネットアセスメントは翻訳しても日本語になじみません。筆者は「総合戦略評価」と訳します。当たり前すぎてピンときません。ぴったり当てはまる政治・外交の概念が日本が日本にないからでしょう。外交青書、防衛白書とも違いますね。これらは現在における分析、課題が主で、しかも読まれることを前提していますし、さらに政権や政府の政治的な意図が背景になっています。
マーシャル氏は分析を絶えず更新したといいます。公表を前提とせず、国家の指導者層が政策判断をする場合に役立つように書いた内部文書なのでしょうか。指名争い向け進行中の大統領選では、トランプ氏の過激で感情的、排他的な発言が注目され、米国の歯車はついに狂ってしまったのか、ですね。その一方で、米国には長期的な総合分析を冷徹に行う組織があり、すごい仕組みを持っているのだな、という思いがしてきます。
日本に欠ける長期、総合的な視野
この本はロシア、中東、中国、韓国など多くの地域、国を扱っています。それらに言及しながら、この本は「日本にも米国流の総合戦略評価部局を設けよ」と、強調したかったのだろうと、私には思えます。筆者が所属するシンクタンクがいずれ提言を政府に提出する、との話を聞いたことあります。官邸に設置されている国家安全保障局は当面する政策立案、情報収集で手一杯だろうし、内閣情報調査室は警察官僚系の組織で、かなり色合いが違いますね。
筆者によると、米国のこの組織には歴史、文化、地政、経済、人口、統計分析などの専門的知識を駆使できる人材が集められ、武力ではなく、まず知力によって敵対者と対抗するのだそうです。正しい予測に基づき、敵性国家の弱点を早期に発見し、必要な準備をしておくといいます。
そんなことができるのか。この組織が評価されたのは、冷戦時代のソ連の経済力の分析といいます。当時、CIA長官はソ連経済を過大評価していたのに対し、マーシャル氏は統計学、経済学なども駆使し、ソ連経済の脆弱性を主張し、その正しさがソ連崩壊で証明されたそうです。
ソ連、中国の弱点を把握し対応策
冷戦終了後は、マーシャル氏の関心は中国に移り、人民解放軍の軍事的評価、経済、社会、人口の動向まで調査対象を広げ、対中戦略の判断材料を提供してきました。何かあったら、激しい対中批判を繰り返すことが中国政策の基本にすりかわる日本とは違うのですね。中国がどう動くのか、どうなるのかを事前に予想し、対応策を想定しておくことは大切ですね。
北朝鮮が核実験(水爆)を実施しました。日本は猛然と抗議していくばかりではいけません。北の経済、政治、軍事などを長期的に分析し、たとえば「国民生活を犠牲にして、こんなことを続けている金正恩体制が転覆することはないのか、転覆するとすれば、いつなのか」、「難民が発生したら、どこが受け入れ国なるのか、日本はどう対応するのか」、「将来、南北が統合され、北の核兵器を南が保有し、南が核保有国になったらどうなるのか、どうするのか」など、検討課題はいくらであります。政府として公表はできない課題でしょう。
意味のない質問に対する「偉大な回答」は無用
日韓外相会談で決まった慰安婦問題では、メディアなどでは「大使館前少女像の移動と被害者救済問題の関係」、「最終的かつ不可逆的な解決という合意の動揺」など、目先の課題に視線が集中しがちですね。そうしたことよりも、北朝鮮の将来を展望し、日韓にはどのような協力関係が望まれるのか。北の核実験からくみ取れるのは、こうした長期的な分析の重要性だと思うのです。
マーシャル氏は「正確な診断こそが適切な戦略的処方を考えるうえで鍵を握る」と、いいます。さらに「意味のない質問に対する偉大な回答より、正しい質問に対するそれなりの回答」を重視していたそうです。なるほど。あまり意義を持たない質問(問題意識)に対する「偉大な回答」は、学者、論壇、新聞社説などになんと多いことか。「偉大な回答」より、「正しい質問」を求める同氏の指摘は、日本に対して痛烈な意味を持っていますね。
中村 仁
読売新聞で長く経済記者として、財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員も経験。その後、中央公論新社、読売新聞大阪本社社長を歴任した。2013年の退職を契機にブログ活動を開始、経済、政治、社会問題に対する考え方を、メディア論を交えて発言する。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年1月6日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた中村氏に心より感謝いたします。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。