独ケルン市駅周辺で大晦日から新年にかけ外国人らしき若い男性集団が女性を襲撃し、暴行や窃盗を犯した事件はメルケル政権の土台を動かす大事件に発展する兆しだ。容疑者として拘束された外国人の中にシリア、アフガニスタン出身の難民申請者が含まれていたことが判明し、難民の積極的な受入れ政策を実施してきたメルケル首相への批判が高まっている。
▲ケルン市駅周辺の集団婦女暴行事件を特集した独週刊誌「シュピーゲル」最新号の表紙
メルケル首相は9日、記者会見し、「集団婦女暴行事件に関与した難民申請者は厳格な処罰を受けるべきだ」と強調し、強制送還などを含む迅速な対応を取ることを示唆したばかりだ。独警察当局によると、9日現在、379件の被害届があり、身元が明らかになった容疑者32人のうち22人が難民申請者だったという。
ケルン市の集団婦女暴行事件はドイツ国民にも大きなショックを与えている。公共の場所で若い外国人男性が集団で女性を襲撃したという事実に衝撃を受けているのだ。招いた客ではない外国人に自国の若い女性たちが暴行を受けた、ということでドイツ国民の外国人への目も厳しくなってきた。同時に、迅速な対応をしなかった警察当局への批判が高まっている。
ところで、ケルン市の集団婦女暴行に関与した容疑者は北アフリカ・中東出身の若いイスラム系男性が多かったことから、ソーシャルネットワークを通じて彼らは大晦日の婦女暴行を事前に計画していたのではないか、といった憶測まで流れている。
欧州のメディアの中には、「イスラム教徒の男性は女性の人権を尊重する教育を受けていない」という声から、「イスラム教は女性蔑視の宗教だ」といった指摘まで聞こえる。欧州社会では、イスラム教創設者ムハンマドに複数の妻がいたとか、自爆テロリストは死後、天国で若い女性たちに囲まれた生活が待っていると信じている、といった話が好奇心もあって報じられてきた。
そこで、「イスラム教はキリスト教より女性蔑視の宗教か」について少し考えてみた。
イスラム教の中でも厳格な教えワッハーブ派のサウジアラビアでは今なお、女性は運転できないとか、さまざまな社会的、文化的な制限があることは知られているが、イスラム教の聖典コーランでは初期は「男性と女性は平等」という認識が強かった。
例えば、コーランでは男性は4人まで女性を持つことができるが、イスラム教専門家によると、「4人の女性を同じように愛したらという条件付きだ。しかし、そんなことは実際は難しいから、1人の女性だけを愛せよという意味だ」という。
「女性蔑視」といえば、キリスト教の方が歴史は長い。「男尊女卑」の流れは、旧約聖書創世記2章22節の「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り……」から由来しているという。聖書では「人」は通常「男」を意味し、その「男」(アダム)のあばら骨から女(エバ)を造ったということから、女は男の付属品のように理解されてきた面がある。
古代キリスト教神学者アウレリウス・アウグスティヌス(354~430年)は、「女が男のために子供を産まないとすれば、女はどのような価値があるか」と呟く。そこには明確に男尊女卑の思想が流れている。
女性蔑視の思想は中世時代に入ると、「神学大全」の著者のトーマス・フォン・アクィナス(1225~1274年)に一層明確になる。アクィナスは「女の創造は自然界の失策だ」と言い切っているほどだ。
もちろん、近代に入ると、キリスト教は女性の権利尊重を重視し、女性の人権を擁護する方向に変っていったことは周知の事だ(「なぜ、教会は女性を軽視するか」2013年3月4日参考)。
興味深い点は、キリスト教では原罪の責任は蛇の誘惑に負けたエバ(女性)にあると受け取られているが、イスラム教では罪の責任はアダムとエバの両者にあると考えられていることだ。原罪の責任という観点では、イスラム教の教えはキリスト教のそれより男女平等といえるわけだ。
まとめる。イスラム教は本来、女性蔑視の宗教ではなかった。だから、ケルン市駅周辺のイスラム系外国人の集団婦女暴行はイスラム教の教えに根付いた蛮行だ、とは言えない。性的犯罪はイスラム教社会の専売特許ではない。欧米社会の現状を見れば、その点は一目瞭然だ。
それでは、ケルンの集団婦女暴行事件はどうして起きたのか。独週刊誌シュピーゲル最新号(1月9日号)は「大晦日の夜がドイツをどのように変えるか」というサブ・タイトルで特集している。
同誌のChristiane Hoffmann記者は自身のイラン取材の体験を踏まえながら、「イスラム系難民たちは収容所や暫定宿泊所で滞在している。仕事がないうえ、未来に対して希望を見出せない。女性との交流する機会もない。一方、喫茶店や公共場所は男性が屯する場所であり、女性は家に留まって子供を見守る、といったイスラム教社会の文化的背景の中で成長してきた。イスラム系の若者たちは、不満と女性軽視、現実の悲惨さと男らしさが入り混じった精神状況下で生きている」と分析している。ちなみに、エジプトの首都カイロのタハリール広場でも多くの若い男性が集団で女性を暴行したり、セクハラする事件が起きたことがある。
独警察側の今後の捜査を待たなければ結論は下せない。欧州の都市では大晦日の夜はダンスなどに興じ、騒いで新年を迎えるのが慣例だ。多くの人はアルコールを飲む。ケルンの容疑者たちはアルコールで酔っていたというから、彼らの多くは正気を失っていたのかもしれない。
ドイツの政治家たちは今回の事件が契機となってイスラム・フォビア、外国人排斥運動が増長されないように十分、警戒すべきだ。イスラム教徒や外国人への襲撃事件が頻繁に起きているのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年1月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。