※これは、教育関係の仕事に就く私(男性)が、1年間の育児休業を経験した“ママ”としての個人的な反省録である。
ママトークでタブー視される旦那の仕事
1年間ママを経験してみて、幾つかのママ会で共通して行われている“ある慣習”に違和感を覚えた。それは、ママトークにおいて「旦那の仕事については話さない」という慣習である。別段、そうした事前契約が交わされている訳ではなく、ママ達の間では常識の紳士協定である(もちろん、気にせず話題にされる方々もおられる)。
なぜ旦那の仕事について話すことがタブーなのだろうか。複数のママから教えていただいた理由をまとめるとこうだ。「旦那の仕事によっては、華やかな会社で働いていたり、他人が羨むような素敵な仕事だったりするし、話の内容によっては昇進しているか否かなどもわかり、序列がついてしまうから」。より端的に表現すれば、「序列化による人間関係への悪影響回避」が理由と言えよう。
本稿のタイトルに「マウンティング」を使用した所以が見えてきたが、その前にもうひとつ同様の事例をご紹介しておきたく、今しばらくお付き合い願いたい。
不妊治療の待合室の張り詰めた空気
独身男性時代には全くイメージできなかった場のひとつに、不妊治療の待合室がある。授かりたくてもなかなか子を授かることができない夫婦がどんな心境でその場にいるかが痛いほど伝わる時空間である。
一見、同じ悩みを抱えるのだから仲間意識や連帯感のようなものが生まれそうなものだが、そう甘くはない。たとえば、第1子を授かったが第2子がなかなかできない夫婦は少なくない。その場合、不妊治療の待合室に第1子を連れて行けずジジババに無理を頼んで預けたりする。なぜ連れて行けないのか。それは、第1子を授かることができない方への配慮からだ。
「気を遣いすぎじゃないの?」「相手だってそんなこと望んでいないのでは?」という意見もあろうが、実態として、ママ達はそこまで配慮している。周囲から好かれようとか嫌われたくないとかそういう次元の意識ではない。子を授かるという奇跡性が手に取るように分かるからこそ、「状況は違えど一緒に頑張りましょうね」という同志への無音メッセージなのだと思う。
二例に共通するマウンティング
そろそろ本題に入りたい。先の二例から私が抽出した共通点は、ママ達によるマウンティングである。どちらも“ママ”としてその場に臨み、どっぷり浸かってみて、「そうせざるを得ない状況」であることは十分に理解できた。一筋縄ではいかないことも承知であり、当事者として未解決状態であることへの反省がある。しかし、だからといって閉口すれば状況はより良い方向に向かわないため、敢えて言及させていただきたい。
将来の子ども達を育てるうえで、ママ達がマウンティングをやめない限り、良き仕事人は育たない。一教育関係者として、そのように反省する次第である。
どういうことか、詳しく述べていきたい。まず、マウンティングとは、元は生物学用語で「背乗り」と表現されるように、動物社会における序列確認の行為であった。我々人間社会においては、2014年に『女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態』(筑摩書房)が刊行されて以降、一般的に流通するフレーズとなった。そこで紹介されているように、「“私の方が立場が上!”と態度や言葉で示すこと」という解釈が分かりやすいだろう。
殴りあわないママ達
ここで、先の二例をもう一度想起していただきたい。旦那の仕事をママトークで話題にできないのは、それが上下関係の序列化を生む(と、ママ達が共通認識を抱いている)からであり、マウンティングだと言える。また、不妊治療の待合室に子どもを連れて行くことが憚られるのは、子どもの存在が「持てる者と持てない者」という序列化を不本意ながら促進する自慢げなアイテムと化してしまう(と、ママ達が共通認識を抱いている)からである。その意味で、こちらもまた、マウンティングと言える。
ただし、既にお気づきのとおり、ママ達は“笑顔で殴り”あっているわけではない。寧ろ、積極的にマウンティングに繋がる態度や言葉を回避している。ママトークでは旦那の仕事を話題にしてい「ない」のだし、不妊治療の待合室に子どもを連れて行ってい「ない」のだから。マウンティングとは、それらを相手に見える(聞こえる)形で実行「する」ことを指す。では、なぜ“笑顔で殴り”あってもいないのに、マウンティングに該当すると言えるのだろうか。
透けて見えるマウンティング・マインド
それは、目に見える「行為」にではなく、目に見えない「思考」にマウンティングが透けて見えるからである。他者から観察可能なマウンティング行為は確かにないのだが、心の中ではマウンティングの思考回路が出来上がっている。私が自己反省的に指摘したいのは、ママ達のマウンティング思考である。
旦那の仕事を口にしたり不妊治療の待合室に子どもを連れて行けば序列が決まると予想してしまう時点で、頭の中は十分にマウンティング・マインドなのである。繰り返すが、それ自体は咎められるものではない。ママという立場になれば、「そうせざるを得ない状況」が日常だからだ。
しかし、それでも、弊害がないわけではない。先の二例に限らず、「どこの幼稚園に入れた」「どこの学校に入れた」「あの家の子はどこそこの習い事に通っているらしい」など、育児や教育の現場におけるマウンティング・ワードは枚挙に暇がない。
マウンティングとは煎じ詰めると?
これらマウンティングの根底には何が横たわっているのだろうか。煎じ詰めれば、マウンティングの主たる特徴は、「外見判断」にある。外見判断は内面判断の真逆に位置する。相手の考え方や大事にする価値観やライフストーリーに思いを馳せるなどの手間暇をかけず、一見して、あるいは一聞して、相手を判断するということである。
これは、ある意味当然である。なぜなら、瞬時に相手より自分の方が優位だと認識するためには、分かりやすい判断基準が必要だからだ。そしてその「分かりやすさ」とは、他者にとっても理解が容易で且つ他者も重要視しているものでなければならない。相手が欲しがってもいないブランド品を見せつけたところでマウントは取れないからだ。その意味で、人々の信用によって流通している(に過ぎない)貨幣と同じ成立条件である。
このような条件を満たす判断基準とは、良い悪いを別にして、たとえば大学で何を学んだかの学習歴よりも大学名という学校歴であり、住んでいる居住エリアであり、年収であり、外見そのものであったりする。少なくとも、現状は。
マウンティング自体は責められないが
もちろん、外見で判断すること自体を否定はしないし、止められるものでもないだろう。生きていく上で必要な作業である場合もあるかも知れない。他の動物がそうであるように、いちいち相手の物語に思いを馳せていてはサヴァイヴできない状況が人間にもあるだろう。『人は見た目が9割』(新潮社)で指摘される「外見の威力」は確かに存在すると思う。誰かとの初対面においてメラビアンの法則に抗うことは不可能なことかも知れない。
しかし、キャリアなど個々人の人生観が強く反映された結果物については、もう少しその人固有の物語に思いを馳せない限り、生き方の多様性は拡大せず、一人一人が幸福を手にできる可能性が拡張しないように思う。換言すれば、他者の評価の中でしか生きられない息苦しい状態に自らを追い込んでしまうように思う。
マウンティングの思考回路が仮に子ども達に継承されれば、子ども達もまた、外形的なランキングや表面的な序列に気を取られ、気を揉みながらキャリアを歩むだろう。だが、そんなものが役に立たないことは、昨今のお偉い「はずの」方々やお勉強ができる「はず」の方々の不祥事その他で十二分に理解しているはずである。
画一的な人々で社会を埋め尽くしたところで
別に『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社)を読まなくとも、既に人々のキャリアは外形的条件だけで幸福度を判定しづらいものとなっていることに気づく。年収が多少低くともやりがいに満ち満ちた仕事人もいれば、年収は高いがストレスフルで死んだ魚の目をして通勤電車に揺られる仕事人もいる。子どもたちが立ち向かう時代は、外見だけで仕事や生き方をジャッジできる単純明快な世の中なのだろうか。というよりも、そんな画一的な見方をする子ども達で社会を満たして面白いのだろうか。それが大人の役目なのだろうか。
外見で判断する人が存在してもいいと思う。しかし、そんな人ばかりではバラエティに富まない息苦しい社会である。画一的な人々のたまり場で、「異質なものとの新結合」だと定義されるイノベーションなど起こるのだろうか。
教育だけで生育がないのは虐待
スマホやテレビゲームに熱中する子どもをその外見の姿だけで否定するところから、あなたよりも稼ぐYouTuberやeスポーツ・プレイヤーが生まれる可能性は低いだろう。保護者向けの講演で「アクションゲームをよくする人は情報並行処理能力が高い」というロックフェラー大学のバヴェリエール博士らの研究成果をご紹介すると、保護者の多くは驚き、子ども達への眼差しが少し変化する。
また、まだ外資系企業に勤める知人からしか聞いたことのないケースだが、管理職への昇進を断る代わりに、現場の成績に応じた待遇アップを要求する仕事人がいる。「ピーターの法則」で取り上げられているとおりだが、「現場を持たない管理職への昇進は、代替の利くマネジメント職、つまりリストラ要員への第一歩でもあるから」というのが理由だ。こうした生き方もあっていいように思う。なにも、ママトークで忖度されているような「昇進は無条件に良いこと」だけが生き方ではない。
ママがマウンティングをやめない限り、子ども達は多方面に育っていかない。生まれもった才能や資質を育てる「生育」をどこかに置き忘れ、子どもを社会に適応させる「教育」(社会化)ばかりに鼻息荒く躍起になることが親の仕事なのだろうか。それは、長い目で見れば子ども達がサヴァイヴするための生命力を摘む虐待になりはしないだろうか。
今後、社会が変わるのならば、子どもに変われと迫る前に、まず子育てが変わらねばなるまい。時間的にも精神的にも余裕を持ちづらい立場であることを実感したうえで、“ママ”として、そう、自己反省する。
高部 大問(たかべ だいもん) 多摩大学 事務職員
大学職員として、学生との共同企画を通じたキャリア支援を展開。1年間の育休を経て、学校講演、患者の会、新聞寄稿、起業家支援などの活動を活発化。