1957年に岸内閣が発足したが、岸首相は日韓会談の成功に意欲的で、就任の当日にフィクサーの矢次一夫と一緒に韓国の次期事務次官に決まっていた金東祚(戦前の高等文官試験に合格)と会い、「日本の過去の植民地支配を深く後悔し、早急な国交正常化をめざしたい」という意向を、李承晩大統領に伝えることを要請した。
矢次氏の紹介の言葉に終始、微実を浮かべていた岸首相は、次のようにいったと金東祚の回顧録にはある。
「帰国したら両国関係に対する私の意見を李承晩大統領に必ず中し上げて、冷却した韓日関係が打開できるよう額む」
「私は西日本の山口県の出です。ご承知のとぉり、山口県は昔から朝鮮半島と往来が多かったところですね。とくに山口県の萩港は徳川幕府時代の貿易船だった朱印船が朝鮮と頻繁に往来した寄港地でした。それだけに、当地人の血には韓国人のそれが少なからず混じっているのが事実で、私の血統にも韓国人の血が流れていると思うほどです。 いわば両国は兄弟国といえるわけです。
ですから、今日、面国が国交も結ばず、相互にいがみ合つているのはまことにやりきれないことです。私は、日本の過去における植民統治の過誤を深差省し、至急に関係を正常化するよう努力する覚悟です。なにとぞ私の意中を李大統領にお伝えください」
これでも分かるように、岸信介が日本政界にあって突出した親韓派であったことが分かる。ちなみに、政治家を片端から在日朝鮮人だと言い募る一部保守派の困った見解のなかに、岸・佐藤・安倍一族が含まれることがあるが、それは上記の発言を曲解したものだ。
古代は別にしても、戦国時代の守護大名である大内氏は、公式の系図において百済王室の男系子孫であることを主張し、朝鮮王国との交易を通じて行き来があった朝鮮国王に対して百済の故地を領地として欲しいと要求したくらいである。
したがって、吉田松陰から明治の元勲に至るまでの人々がもっていた半島への関心には、上記のような歴史観が背景にあったし、山口県人であった岸信介にとっても同胞意識はそれほど突拍子もないものではないのである。
余談だが、吉田松陰の杉家は大内氏の末流といわれるから、そういう意味では百済王家男系子孫だ。日韓会談で日本側主席をつとめた杉道助(ジェトロ理事長など)は、吉田松陰の兄の孫だし、朴正煕が吉田松陰を尊敬していたというのも偶然でないのかもしれないし、岸・佐藤家は吉田松陰との縁も深い。
このあと、矢次氏は首相特使として韓国に招かれ、李承晩大統領と会談し、「日韓併合は韓国にとって迷惑であったろう」という口上を伝え、さらに矢次は「長州出身の伊藤博文の後輩として、後始末を着けたがっているのでないか」といったこともいい、李承晩は岸首相となら交渉妥結も可能だと言って喜んだ。
ただし、この口上について、国会で社会党の今澄夫から追及された岸は「私の意見でなく矢次の意見」と答弁し、今議員は「日本と韓国との間をすべてのものを譲歩して取り持たなければならないということは日本の国民は望んでいない」と釘を刺した。何やら、令和の時代の論戦と立場が逆転しているのである。
そこで、偽リベラル界隈は、岸らが利権目当てで日韓交渉で韓国に甘くピンハネしたとかいう。この時代、あらゆる政策と同様に、日韓双方でそれなりに利権とピンハネはあったかもしれないが、日本からの経済協力を活用して漢江の奇跡がなしとげられたことをみれば、利権目当てだったとか、採算性に影響を与えるようなものではなかったことが証明されている。
また、このころ、日韓会談の沢田廉三首席代表が、「北朝鮮が半島を統一すれば日本はお先真っ暗になる。韓国の方が統一できるように武力では助けられないので日韓会談でできるだけ譲って韓国を援助する」と非公式に語っていると共産党が暴露し批判している。
いずれにせよ、請求権問題については、岸政権が韓国に妥協しようとし、社会党などの野党や霞ヶ関が反対するという構図があったのは明らかだ。また、岸政権も朝日新聞も「本来は韓国にそれほど大きな金額を与える必要はないが」という点では同じ見解だったのである。
これは、岸が安保改定を睨み、東南アジア諸国との賠償交渉をまとめ、蒋介石との関係を修復したのと同じ文脈である。
そういう意味で言うと、韓国が請求権問題で安倍首相を攻撃するのは、まことに恩知らずの極みだし、朝日新聞はどの面下げてということではないか、といえば話が面白すぎか。
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授