日本のナショナリストが妥協せずに押し込み続けることで、あたらしい普遍的な希望に繋がっていく
ちょっとやそっとじゃ改善の余地が見えなくなりつつある日韓関係ですが、単に日本側のナショナリズムの充足といった視点からだけでなく、例えば私のような基本的にある種のリベラルな感覚を大事にしたい層から見ても、日本側が妥協せずに押し続けることによって、「より広い視野でみた時の普遍的な希望」に繋がる余地はあるはずだと私は考えています。
たとえば、最近ツイッターで流れてきたので読んだ記事があるんですが、これは古谷有希子さんという方が書かれた記事で、ご本人は韓国語もできるし、この記事は韓国でも評判を得た記事だそうです。
あまり詳しく存じ上げないですが、この古谷さんという方は、相当先鋭的なフェミニストの方で、日韓関係とかいった話題においても、常にかなり原理主義的に韓国側にたって「日本」を批判する…立場で書かれることが多かった人であったように記憶しています。
しかし、リンク先の記事では、昔の古谷さんのイメージからすると、相当気を使って価値中立的な言論をしようとしていることが伝わってきます。
つまり全体的に、韓国側の主張に対して日本人側の考え方をちゃんと並列的に対置しようとしている。
ある種の左翼主義者がやりがちな、「韓国人はちゃんと民主主義的な善を信じているが、日本人はそれが理解できないゲスなヤツらだ」みたいな論法にしてナショナリストのみならず普通の市井の日本人の対韓感情の悪化にアブラを注いでしまうようなことをせず、そもそも社会運営がどうあるべきか、においての「価値観」がそれぞれ違うんだ…という「それぞれのやり方」を並列的に「それぞれなりの善」として描く立場にするようにかなり気を使っている。
もちろん日本側のガチガチのナショナリストさんから見ると、言葉のはしばしに不満を感じる部分はあるでしょうけど、私個人の受け止め方としては、「凄い大きな変化があったなあ」という感じがしています。
ほんの一ヶ月とか、二ヶ月だけでも、大きな空気の変化が生じている。
伝統的な固定された紋切り型のリベラル的価値観からすると色んな問題を抱えた紛糾が続いているわけですが、その混乱を経ることで、すべてをナアナアにしたままではたどり着けない「あたらしい希望の地平」も見えてくるだろうと私は考えています。
韓国のナショナリズムも日本のナショナリズムも”両方ちゃんと批判できるリベラル”の確立が必要
「反日種族主義」という本が韓国内でベストセラーになっているという話を聞きますが、日本側のナショナリストさんが必死に押し返そうとすることで、韓国側・あるいは「常に韓国側の立場で考えるのが常識だったリベラル界隈」における論調が、ちゃんと適切な相対化が行われるようになってきているのは、
大きな「希望」だし、日本側のナショナリストが色々問題を抱えつつも達成した価値
と言っていいように思います。
もちろんその背後には、SNSで韓国人とか在日の人に対して延々罵詈雑言を投げかける人びとや、国内の韓国人街で威圧的なデモをする日本人の過激派ナショナリスト・・・という「問題」を抱えてこその結果ではありはします。
しかしじゃあ、というか「だからこそ」というか、
そういう「暴発」をしないで済むようにするには、「韓国のナショナリズム」と「日本のナショナリズム」を「並列的に扱えるフェアなリベラルの立ち位置」を大きく育てていくしかない
という風にも言えるでしょう。
これは昔ブログに使った図なんですが、なぜ日本側のナショナリストが過激化してまでも押し返さなくてはいけなくなってしまっているかというと、
「リベラル勢力」をとりあえず象徴的に朝日新聞サンに代表してもらってますが、こういう感じになってると、日本側が無理をしてでも押し返さざるを得なくなりますよね?
それが、ちゃんとこうなると…
日本のナショナリストが「無理」をする必要性が減ってくる。そうすることによってのみ、国内のいわゆる「ヘイト行為」をちゃんと抑止することができる情勢にもなってくるでしょう。
ある意味で、こういう問題は4ー5年前ぐらいまでは、
韓国のナショナリズム+中国のナショナリズム+あらゆるリベラルの大連合軍
VS
日本のナショナリズム
という非常にイビツな状況におかれていたわけで、本当に「フェアに中立的なあるべき姿を描く」という理想からは随分と歪んだ構図にならざるを得ませんでした。
結果として日本のナショナリズムが相当に過激な手段を使ってでも是正にチャレンジする必要があった…という構造があったわけですね。
それが、昨今になりますと、まず米中冷戦の開始による戦略的必要性から中国のナショナリズムが日本との融和策に動いたこともあり、また、さっきの記事のような形で、
リベラルというのは、韓国のナショナリズムと盲目的に同化することではない
という感覚も生まれてきているために、随分と上記の「VS構造」が拮抗してきたように思います。これをもう少し日本のナショナリスト側が押し込んでいって、
韓国のナショナリズム+リベラル勢力のうちの先鋭的な左派
VS
日本のナショナリズム+リベラル勢力のうちの穏健派
ぐらいの構造になってくれば、事態を収集する手段もまた見えてくるでしょう。
日本のナショナリストさんたちには、まあ私なんかに言われるまでもないでしょうが、あと少し頑張って妥協せず押し込んでいただきたいと思っています。(それと同時に、関係ない国内の韓国人や在日の人に直接攻撃したりする問題を、徐々に自浄作用を働かせてやめていっていただければと)。
拮抗状態になってから共有するべき新しい世界観
今はまだ、完全に「拮抗状態」までは行ってないために、日本のナショナリズム側がまだまだ頑張る必要もあるように思います。願わくば、トバッチリがいわゆる「ヘイト」的な形で日本語ができる韓国人とか在日の人たちに向かわないようにだけ、気をつけていただければと思っています。
結局、旧大日本帝国の軍が完全に品行方正で、どこに行っても一切悪いことをしなかった・・・などと考えている人は、相当な日本のナショナリストの中でも少数派でしょう。
ただ、大きな歴史の流れの中での不可避的な暴力の連鎖の結果生じてしまった種々の問題について、なにか真空空間から突然出現した悪魔みたいな扱いで100対0に断罪する手法に、ある種のモラルハザードが隠れているところが問題なわけです。
その「100対ゼロ」の糾弾中毒みたいな世界観を、中国人が毛沢東に対したやったように「7対3」に相対化することができれば、お互いのメンツの立つ「安定した着地点」も見えてくるはずです。
そういう「あたらしい東アジアの共有軸を作っていく提案」については、来年1月に出る私の新刊「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」の「まぼろしのあとがき」として掲載されるはずだった、以下の記事↓をお読みいただければと思います。
もう東アジアの平和は「この地点」まで突き抜けるしか回復することはありえないところまできた・・・「アジアの時代の21世紀」のあたらしい共有軸のつくりかた
上記リンク↑の文章には、
よく言われる「ドイツの反省の仕方」という仕切り方にどういう巨大な「欺瞞」が含まれており、その形では決して東アジアの安定は得られることがない理由
についても述べてあります。また、
日本語のできる中国人や韓国人、在日の方がたへのそれぞれのメッセージ
も含めて書いてあります。それぞれの集団内で、ぜひ読んでいただきたいと思っています。
最後に
「議論と言う名の罵り合い」の時代をおえて、「本当に問題を解決するための対話」の時代をはじめましょう。
そのための私の5年ぶりの新刊、
「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?
が、来年1月にディスカバー21社から出ます。長く時間をかけただけがあって、本当に自分の「すべて」を出し切れた本になったと思っています。
現在、noteで先行公開しており、無料部分だけでもかなり概要がつかめるようになっていますので、この記事に共感された方はその無料部分だけでもお読みいただければと思っています。
同時に、その話をさらに推し進めたところから、日韓関係をはじめとする東アジアの未来の平和はこの視点からしかありえない…と私は考えている提言については、以下をどうぞ。
それではまた、次の記事でお会いしましょう。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
・公式ウェブサイト
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