株式会社経済界より『心を洗う』という本を上梓しました。週明け28日より全国書店にて発売が開始されます。本書は12年前の4月より書き続けているブログ「北尾吉孝日記」の再構成として、08年9月出版の第1巻『時局を洞察する』から数えて12巻目に当たります。
今回は、本書のタイトルを『心を洗う』としました。「洗心」の二字は、神社の拝殿前の御手洗(みたらし)の水盤に彫られたり、禅語の茶掛(ちゃがけ)として用いられたりしていますから比較的良く知られる熟語です。
この語の出典は、古代中国の『易経』です。『易経』は四書五経に挙げられる儒教の経典です。この『易経』の「繋辞(けいじ)上」に「聖人は此(ここ)を以って心を洗い、退きて密に蔵(かく)れ、吉凶民と患(うれ)いを同じくす」とあります。また『後漢書』の「順帝紀」に「洗心自新(心を洗いおのずから新たなり)」という句があります。
「洗心」の字義は説明するまでもないことですが、「心の塵(ちり)を洗いおとすこと」、「心の煩累(はんるい)を洗い去り浄めること」で、簡単に言えば、心の汚れ、雑念・執着を取り除くことです。
我々が朝起きて顔を洗うのも、日に何度も手を洗うのも、神社でお参りする前に手や口を清めることも、茶席に着く前に手を洗うのも「洗心」の行の一つと言えるかも知れません。
しかし、「洗心」の為の最も大切な行は人格陶冶(じんかくとうや)に向けた不断の努力です。陽明学の始祖である王陽明(1472~1529年)の言葉を借りると「天理に純にして、人欲無し」といった状態を目指し、先哲から学び、知行合一(ちぎょうごういつ)的に事上磨錬(じじょうまれん)していくのです。こうしたことを陽明学では「良知を致す」と言います。
聖人とは、個の良知を純粋に体現して、心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えざる(自分の思うがままに行っても、正道から外れない)に至った人であります。我々凡人はせめて日々反省・洗心し、それぞれの良知に従って行動することに努めねばなりません。
私の拙いブログ本をお読みになり、もし得るところがあれば、血肉化し、皆様方の実際の日常生活の中でそれが行動に移されるようになれば、私として望外の喜びです。本書が読者の皆様の日々の修養の一助となれば、幸甚であります。
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