ヒトラー生家が警察署に生れ変わる

長谷川 良

オーストリア内務省は19日、同国オーバーエスタライヒ州西北部イン川沿いのブラウナウ・アム・インにあるアドルフ・ヒトラーの生家を警察署に改築して利用することを決定したと明らかにした。ヒトラーは1889年4月20日、その生家で4男として生まれた。

▲アドルフ・ヒトラー(独連邦文庫から)

▲アドルフ・ヒトラー(独連邦文庫から)

欧州でネオナチ運動が活発化し、極右勢力が台頭してきたことを受け、オーストリア政府は「ヒトラーの生家がネオナチらの聖地(メッカ)になることを回避しなければならない」としてその対応を急いできた。

オーストリア政府は1972年以来、持ち主との間に生家の借用契約をしてきたが、家主側の反対があって購入できずにきた。一時期、「生家を破壊すべきだ」という声もあったが、2016年5月には強制収用できる法案を作成し、ヒトラーの生家を強制的に買い取るために、持ち主と交渉を重ねてきた。

内務省によると、「生家がヒトラーと関連する一切を排除し、地元の警察署として生まれ変わることになった。建築家など専門家たちによる審査で建築プランを公募する」という。同審査結果は来年上半期には明らかになる予定という。

ちなみに、2017年1月に特別法で生家をオーストリア政府の所有としたことを受け、オーストリア側は生家の持ち主に約81万2000ユーロの補償金を支払った。新しい警察署はブラウナウ警察本部の管理下に置かれる。ただし、警察署がいつ完成するかは未定だ。

当方は30年前ごろ、ブラウナウを訪問し、ヒトラーの生家を訪ねたが、生家を見つけるまで一苦労したことを思い出す。誰もヒトラーの生家がどこにあるか教えてくれないのだ。町の情報センターに聞いても「知らない」という答えしか戻ってこなかった。生家は当時、精神病患者の福祉更生施設の作業場だったと記憶している。

ブラウナウ・アム・インに現存するヒトラーの生家(Wikipedia:編集部)

「ブラウナウは小さな町だ。外国人旅行者が足を踏み入れるとすればヒトラーの生家を見学することぐらいだろう。ヒトラーの生家の場所を聞いたのは当方が初めてではないはずだが、情報センターの関係者は『知らない』という。『それ以上、聞くな』といった響きすら感じたので、歩き出して路上の人に聞いた。数回、尋ねた後、ヒトラーの生家を見つけた」とコラムの中で書いた。

オーストリア国民が独裁者ヒトラーを誇らしく感じないのは理解できるが、その生家の住所さえも外部の人間に隠そうとするブラウナウの人々に驚かされたものだ。

「モスクワ宣言」で“オーストリアはヒトラーの犠牲国だった”となって以来、国民はナチス・ドイツの犠牲国の立場を死守してきた。しかし、ワルトハイム大統領(1986~92年)のナチス戦争犯罪容疑問題が大きく報じられ、世界ユダヤ人協会やメディアから激しいオーストリア・バッシングが行われた。フランツ・フラニツキー首相(任期1976~1997年)が「わが国もヒトラーの戦争犯罪に責任がある」と表明し、犠牲国から加害国であったことを初めて認めるまで、かなりの年月がかかった。

ヒトラーの出生地はオーストリアの小村ブラウナウ・アム・インだ。村を通過するイン川を越えると、そこはドイツのバイエルン州だ。ヒトラーの出生地とバイエルン州は実際、数百メーターも離れていない。多くのオーストリア人が「ヒトラーはドイツ人であり、ベートーベンはオーストリア人だ」と宣伝したくなる衝動も理解できる。

ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指していたが、2度とも果たせなかった。もしヒトラーが美術学生となり、画家になっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。ウィーン美術学校入学に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は政治の表舞台に登場していくのだ。

美術大学学長がヒトラーを入学させていたならば、ナチスの蛮行、ひいては第2次世界大戦も勃発しなかったかもしれない、一学校の入学不合格が世界の歴史を変えてしまったわけだ(「画家ヒトラーの道を拒んだ『歴史』」2014年11月26日参考)。ちなみに、ヒトラーが若い時に描いた水彩画が独南部ニュルンベルクで競売に掛けられ、13万ユーロで落札されている。

オーストリアのヴォルフガング・ぺショルン内相は19日、「ヒトラーの生家が警察署として利用されることで、同生家が国家社会主義の苦い過去を永遠に排除する明確なシグナルとなるだろう」と述べている。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年11月22日の記事に一部加筆。