アベノセイダーズといわれる安倍首相が大嫌いな野党やマスコミには、立派なインテリが多いはずなのだが、安倍首相に打撃を与えられることなら、それが彼らの本来的な主張と明らかに反し、彼ら自身の立場を危険にさらすことでも平気で主張する。
外国政府の内政干渉を期待するなどは、これまでの保守政権に対してと同様であるから、それに彼らがなんの躊躇もないのは驚くに値しないが本当はひどい話だ。
平成の御代にあっては、天皇陛下を安倍首相に対する抵抗勢力として位置づけ、内閣の決定や国会の議決した法律を否定する行動を陛下に期待した者さえいた。
安倍首相が「解散がいつになるかは神のみぞ知る」といったら「ついに自分を神呼ばわりしだしたか」とツイートしたのは中野晃一上智大学教授だが、さすが、カトリック系の大学の教授でありながら「赤旗」で共産党を持ち上げるという器用な方だからびっくりするようなことでないかもしれない。
そして、最近、驚いているのが、河井克行・案里夫妻の事件について、マスコミが検察リーク以外に情報源はありえない報道を小出しにし、強引な捜査を正当化する世論作りに協力していることだ。少なくとも、収賄側がほとんど起訴されないまま、その証言によって元法務大臣が贈賄に問われそうとというのは異常だ。
朝日新聞に「(ひもとく)検察と政治 権力の逸脱を法で縛るために」という記事を宇野重規・東京大学教授が寄稿しているが、そのなかで、こんなことをいっている。
(略)…何より重要な著作は三谷太一郎の『政治制度としての陪審制』であろう。「近代日本の司法権と政治」を副題とするこの本は、近代日本における検察の問題に光をあてる。明治憲法体制において反政党勢力を代表したのは、「統帥権の独立」を掲げた軍部だけではない。「司法の独立」を唱えた検察主導の司法部もまた、政党政治の脅威であった。検察権力で政治に介入、司法界の法王として君臨し、首相となって右翼的な国家改造を目指した平沼騏一郎がその代表である。
平沼騏一郎というのは複雑な要素をもった人物だから単純に否定的な側面ばかり論じるのもどうかと思うが(終戦を実現するために決定的な役割も果たしている)、まったくそのとおりであろう。
これについて、梶谷懐神戸大学教授は、「”明治憲法体制において反政党勢力を代表したのは、「統帥権の独立」を掲げた軍部だけではない。「司法の独立」を唱えた検察主導の司法部もまた、政党政治の脅威であった」とツイートしているが当然のことだ。
検察の大ヒットと世間でいわれるような事件は、だいたいが、事実関係について隠れた事実を暴いたというより、法解釈の実質変更である。田中角栄のロッキードもそうだし、リクルート、ホリエモン、村上世彰などの経済犯罪などそういうことではないか。
しかし、政治も自業自得ともいえる。カルロス・ゴーン事件は、日本経済にとって救世主といわれ尊敬されてきた外国人経営者を、経営立て直しが終わったから追い出したいという社内勢力と検察が組んで仕掛けた事件に、政府の一部が与したともいわれた。
少なくとも、外国からの人質司法に対する批判に対して、日本には日本のやり方があるとか無茶苦茶な理屈で対抗するのに協力していた人たちが、今度は、検察もやり過ぎだというのは滑稽だ。
私は検察はもっと多くの案件を起訴してもいいと思う。ただ、証拠集めのための人質司法と自白偏重主義、ルールがはっきりしないままの司法取引まがい、推定無罪に反する被告人の社会的地位剥奪や裁判中の拘留、長すぎる裁判と極端に高い有罪率などは、少なくとも世界的な常識に反するものだから、やめたほうがいいと思う。
それから、検事総長人事に政治がいかなる選択も行えないとすれば、それは民主主義の否定であろう。そもそも、検察は行政の一部であって三権分立の司法部門ではない。それに最高裁の判事すら内閣が指名するものであり政治的判断で行われるのに、検事総長の人事は完全独立などありえないだろう。
もちろん、官僚人事は専門性を考慮すべきであり、その範囲において政治の介入には慎重であるべきだ。
そういう意味では、民主党政権において、駐中国大使に民間人をもってきてあまり結果は良くなかった。それと同時期に検事総長に民間人を起用しようとしたとされるのも乱暴だったのかもしれない。しかし、自分たちはまったくの外部登用まで検討していたのに、安倍内閣が2人いる現役検事の候補のうち片方を選ぶのすら許せないというのはひどい話だ。
今回は、ゴーン事件で検察の絶対独立性を擁護した与党サイドが天に唾したかたちだが、そのうちにマスコミも野党も同様に後悔することになるのではないかと思う。
そのあたりは『日本人がコロナ戦争の勝者となる条件』(ワニブックス)のあとがきでも少し論じている。あとがきでは、日本の政治の今後のめざす方向を全般的に論じたもので、ポスト安倍とかさらにその先を狙う人たちにも読んでもらいたいと思っている。