新聞は昔からある
菅義偉首相が開催した都内パンケーキ店での番記者との懇談会を、朝日新聞が欠席した。
欠席の理由として朝日新聞は、日本学術会議の「任命拒否」の騒動をめぐり
「首相側に懇談ではなく記者会見などできちんと説明してほしいと求めています。首相側の対応が十分ではないと判断しました。」
とする。
朝日新聞の他にも東京新聞、京都新聞が欠席し、東京新聞はその理由として
「首相が懇談ではなく、9月16日以降開いていない記者会見を開き、日本学術会議の会員任命拒否など内外の問題について、国民に十分説明することが必要という考えです。」
とする。
京都新聞の欠席理由は少なくともネット上では確認できない。
このように朝日新聞と東京新聞は菅首相による記者会見の開催を要求しているが、両新聞が主張する「記者会見」とは常識的に考えれば映像メディア(事実上、テレビ局)が参加したものだろう。「映像メディアなき記者会見」は想像しがたいし、そのような記者会見ならば朝日新聞と東京新聞は欠席するはずである。
そして「記者会見とは映像メディアが参加したもの」とした場合、朝日新聞と東京新聞が懇談会を欠席してまで記者会見の開催を要求することが奇妙であることがわかる。
というのも新聞は映像メディアの協力がなくても成立する仕事だからである。映像メディアがない時代にも新聞は存在した。「新聞の歴史」において映像メディアなかった時代は決して短くはない。
菅首相との懇談会欠席は新聞の自己否定である
現代のように映像メディアが日進月歩で更新されているときこそ古典的な新聞記者の能力が期待される。
それは具体的には言えば取材対象者と信頼関係を築き、自己開示させることである。
そして信頼関係を築くにあたって取材対象者との「対面での会話」は欠かせない。
コロナ禍により「対面での会話」の重要性を再認識した方も多いだろう。
我々一般国民は政治家や官僚と対面で話す機会はほとんどない。一生ないという者もたくさんいる。自己開示をゴール地点とすれば対面はスタート地点である。一般国民はスタート地点にも立てないのが現実である。
だから新聞記者に代理として政治家や官僚と対面で会話してもらい、彼(女)らから信頼を勝ち取り、自己開示を実現してほしいのである。
新聞は歴史あるジャーナリズム、というよりジャーナリズムの歴史は新聞から始まった。そんな新聞に「対面→信頼獲得→自己開示」という古典的な情報収集を期待することはおかしなことではあるまい。
何よりも新聞は「対面→信頼獲得→自己開示」の手法を自覚しなければ独自性を発揮できなくなる。独自性を発揮できなければ映像メディアに翻弄されるだけだろう。
これらの理由から朝日新聞、東京新聞、京都新聞が菅首相との懇談会を欠席した事実は重大である。新聞の自己否定と言わざるを得ない。菅首相との懇談会に出席してこそ新聞記者である。記者会見にこだわる新聞記者は単なる職務放棄である。彼(女)らの関心は「記事」ではなく「記者」の肩書にある。
もう今回のような茶番は終わりにすべきだ。終わりにするためにも記者クラブの改革について真剣に議論すべきだろう。