いよいよ開催される東京五輪
7月23日開催の東京2020五輪がいよいよ目前に迫ってきた。思えば8年前のIOC(国際オリンピック委員会)による東京2020五輪開催決定から今日までトラブルや波乱の連続であった。新国立競技場の設計変更問題に始まり、五輪ロゴ制作問題、コロナ禍による開催1年延期問題、森喜朗組織委員会会長の不適切発言問題、そして、最大の危機ともいえる緊急事態宣言下での五輪開催問題などである。最後の土壇場までトラブルが続き、まさに「呪われた五輪」というにふさわしい。
一部野党により政争の道具にされた東京五輪
そのうえ、日本共産党はコロナ禍の有無にかかわらず、12年前からもともと東京五輪の招致にも開催にも反対であった。当時の機関紙「しんぶん赤旗」を見れば明らかである。共産党は当時、五輪の招致と開催は予算の無駄使いであり、その予算を福祉の充実に回すべきであるなどと主張していた(2009年3月18日付け「しんぶん赤旗」参照)。立憲民主党も最近は共産党に同調し五輪開催反対を主張している。両党の主張は「国民の命と五輪開催のどちらが大事か」と、もっぱら国民の感情に訴え、国民に二者択一を迫るものである。のみならず、両党の思惑は、五輪の開催を中止に追い込むことによって、自民党菅内閣に致命的なダメージを与え、あわよくば、菅内閣総辞職、総選挙自民党惨敗、政権交代に持ち込むことであろう。このように、東京五輪開催問題は一部野党により政争の道具にされているのである。
国民の命も五輪もどちらも大事だ
しかし、よく考えてみれば、国民の命も五輪もどちらも大事なのであり、二者択一の問題ではない。日本が自らの意思と責任で五輪を招致した以上は、五輪の開催は全世界に対する招致国としての重大な責務であり、日本がコロナ禍という自国の都合のみで開催国の責務を放擲することは許されない。なぜなら、五輪中止は、世界各国の代表である参加アスリートに対する開催国としての責任のみならず、その活躍に期待する各国国民に対する開催国としての責任を、すべて日本側の自己都合だけで放擲することになるからである。したがって、日本としては、国民の「命と五輪」を両立させることこそが重要な使命であり、以下の通り、科学的には両立は可能なのである。
科学的には五輪開催は可能だ
先般、文部科学省が発表した科学的知見によれば、6万8000人収容の新国立競技場で1万人の観客を入れた場合でも、「3密」を避け各人がマスクを着用すれば、新規感染者はゼロに近いことが世界一の「スパコン富岳」で証明されている。このことは、北は北海道から南は九州まで全国各地で行われている有観客のプロ野球や、有観客の大相撲名古屋場所、有観客のJリーグでも特段クラスターが発生していない事実からも裏付けられている。にもかかわらず、五輪では96%が無観客なのである。
立憲民主党や共産党、さらに一部専門家らは、東京都をはじめ首都圏で新規感染者数が増加していることを挙げて、五輪開催は危険であると言っている。確かに、東京都の新規感染者数はこのところ毎日1000人を超えているが、死亡者数は、7月に入って激減し1日あたりゼロ人から2人であり極めて少ない(7月18日付け東京都公式ホームページ参照)。これは高齢者をはじめとするワクチン接種拡大の効果であろう。上記の野党は前記の通り「命と五輪のどちらが大事か」などと国民に二者択一を迫り、科学ではなく国民の感情に訴えるが、新規感染者数は増えても死亡者数は激減し極めて少ないのが実態であり、「命と五輪」の両立が科学的に可能であることは明らかである。
感情的な東京五輪反対運動
以上の通り、科学的には東京五輪の開催が可能であるにもかかわらず、立憲民主党や共産党などの一部野党のプロパガンダ(「政治的宣伝」)により、一般国民に科学的ではなく感情的な、いかにも「東京五輪は危険」のイメージが植え付けられたため、一部市民の五輪反対運動がエスカレートし、来日したIOCバッハ会長らへの攻撃が激化している。一部市民やデモ隊による被爆地広島訪問反対運動や迎賓館歓迎会開催反対運動などは感情的でヒステリックであり、後者については、テレビ朝日コメンテーターの玉川徹氏すら「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎いのたぐい」(7月19日8時テレビ朝日放送「羽鳥モーニングショー」)と評している。日本国民は、礼儀正しい世界有数の誇り高い先進自由民主主義国家の国民として、いかなる理由があろうとも、少なくとも外国の賓客に対する礼儀と礼節だけはわきまえたいものである。