西鶴にみる身分制秩序の再生産と町人文化の限界

井原西鶴の「武家義理物語」が描いた青砥藤綱の行為は、ケインズの経済理論の先取りといえなくもない。つまり、川に小銭を落とした藤綱は、そのまま捨て置けば世の損失だとして、多くの人足に大金を与えて探し出させ、人足に与えた大金は世に流通するのだから損にならないといって、喜んだわけだし、思い掛けない大金を得た人足達は、それを直ちに消費して、酒宴を張ったからである。

123RF

公共投資は、用途目的の必要性が明らかでないものも少なくなく、仮に実用性のない事業だとしても、投下される巨額な資金は国民の間に流通して、経済の拡大的再生産につながることが想定されているわけだから、藤綱が小銭を探すために大金を投じた理屈と大差ないと考えられ、藤綱の行為の裏には、資本の循環による資本の成長が予定されていたともいえるのである。

しかし、実際には、小銭は発見されておらず、人足の一人が自分の小銭を偽って差し出したのにすぎなかった。不正を知った藤綱は、その人足を裸にして、97日間かけて、小銭を探させたのであるから、藤綱は、支配階級にあるものとして、97日間の苦役を強制することにより、支配の秩序を再生産したのである。

しかも、不正を暴いた別の人足は、実は、事情により身をやつした武士であったことが知れて、再び武士に取り上げられたのであるから、ここでも、再生産されたものは武士支配の身分制秩序だったのである。

町人であった西鶴は、江戸時代の武士を頂点にした身分制秩序に強く拘束されていたのであって、同じ町人身分ものに課された無益な97日間の苦役に批判的であるよりも、逆に、武士の支配を肯定したうえで、その価値観の強制としての懲罰的苦役の賦課に賛同する姿勢を示している。そこに江戸時代の町人文化の限界があったわけである。

森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
twitter:nmorimoto_HC
facebook:森本 紀行