羽織を着たゴロツキ、羽織ゴロ。
新聞記者はかつてこのように呼ばれていたと山本夏彦氏は書いています。取材先に対し「書き方次第でどうとでもなるんだぞ」という強みをちらつかせながら、いろいろなものを要求したので、この不名誉な名前を頂戴したのでしょう。
現在では、さすがにこのような露骨なものはないと思いますが、「伝統」は形を変え、近代化されて生き続けているようです。
池田先生が9月6日の記事で指摘されているように、記者クラブの経費はほとんどが官庁や企業などの発表者側が負担しています。少し古い資料ですが、岩瀬達哉著「新聞が面白くない理由」には詳細な調査資料が載っており、それによると96年度の記者クラブの経費は総計約107億円と試算され、その多くは税金による負担です。
記者クラブの負担を発表者側に押し付けることができるのは発表者側が弱い立場にあるためでしょう。メディアは排他的な記者クラブを形成することによって情報の流通を独占的に支配し、発表者側に対して有利な立場を得ることが出来ます。記者クラブという仕組みを通してしか発表できない発表者側は悪く書かれないようにするため、彼らの機嫌をとらざるを得ないというわけです。
多数の食中毒者を出した雪印乳業は、社長の「私も寝ていない」発言などで、マスコミの反感を買い、巨額の損失と5工場の閉鎖、1300人の解雇に追い込まれました。このときは会社幹部に対する記者の横柄きわまる態度も問題になりました。不二家事件(参考拙文)では社内消費期限が1日過ぎた原料を使ったために、中毒患者の発生もないのに経営危機に追い込まれました。マスコミに血祭りに上げられることの恐怖は徹底的に周知されたことと思います。
この恐怖は記者クラブの力の源泉であります。そして記者クラブ制度は発表情報を独占して新規参入を防ぎ、既存メディアの権益を守ってきたと言えるでしょう。
一方、記者クラブが生む非効率性についても池田先生が同記事で指摘されています。多くの記者がクラブに詰めているという事実は、新聞社が数千人の記者を抱えているわりには、調査報道が少ないことへの疑問に答えるものでした。
そこで提案ですが、記者クラブの非効率と弊害を軽減するためには、発表者側がホームページでの発表に比重を移せばよいと思うのですが、どうでしょうか。
8月28日、各紙の朝刊には3回目の全国学力・学習状況調査(学力テスト)の結果が掲載されました。この結果は文部科学省が27日に発表し、翌日の新聞に載ったというわけです。ところが文科省のホームページでは28日付の報道発表資料にありました。つまり新聞各紙の発表に合わせるように、文科省はホームページでの発表を遅らせたと見られます。
朝日、毎日、日経はそれぞれ様々な点を取りあげ、解説をしています。しかし、ざっと見た限り、そこには文科省のホームページに掲載された内容以外のものも含まれているようです。恐らく文科省はホームページに掲載したものに加え、別の資料を記者達に用意したのでしょう。ホームページを見ただけでは十分なものとならないよう、そして各社の味付けができるよう、配慮が感じられます。これでは癒着と見られても仕方がありません。
発表者側が記者発表と同時、あるいはより早くホームページに掲載することは十分可能な筈です。情報の流れが記者クラブ経由の単一チャンネルから複数のチャンネルとなれば、発表者側の立場も強くなります。上記の学力テスト結果では29ページの詳細な資料がホームページに載っていて、量では新聞を圧倒します。
記者クラブに依存していた官公庁などの発表者側がホームページに十分な情報を掲載すれば、国民はメディアによって加工されていない情報を素早く手にすることができます。官房長官の会見などはリアルタイムの動画がよいでしょう。発表者に対する質問も工夫すればオンラインでも可能だと思います。
新聞やテレビは重要なものについて味付けした記事や解説を載せればよいわけで、そうなれば読者は元ネタと比較することが可能になります。メディアというフィルターを通って情報が曲げられることの怖さは松本徹三氏が9月8日の記事で指摘されている通りだと思います。
それらの発表を集め、重要度別・分野別に分類し、リード文や簡単なサマリーをつけたようなニュースサイトができれば、ずいぶん便利になることでしょう。記者クラブと発表ものに寄りかかっている既存メディアにとって、それは強力な競争者になり得るでしょう。
うまくいけば、新聞は調査報道や記事の質を重視せざるを得なくなるという期待は甘すぎるでしょうか。高給を食み、高い知性を備えておられる記者の方々には、右から左へ情報を運ぶというような仕事ではなく、その知性にふさわしい仕事をしていただきたいと願うものです。
コメント
早速、岩瀬さんの書籍に関する明晰な論考をしていただき、有難うございます。自分も概ね、わかっていたとはいえ、この本を読んで今更ながら、問題の根の深さを痛感いたしました。
つい先日も、かってのノーパンしゃぶしゃぶ報道の裏話、官報接待等について、ある先輩から話を伺いましたが、もうやめておこうと思います。半年ほど前の論客(正論派。まあ、メディア世論からいけば、かなりライトウィングの方とは思いますが・・。)の講演で「私はもう諦めています。何をしても、日本の将来は暗い。日本の没落を見届けて死んでいきます。」という、くだりがありました。自分も、この国では、テレビ局の利権構造が崩れるより、国家の没落のほうが先だろうな、と思っています。真剣に考えていると、仕事や健康に支障がでますね。
コメント、ありがとうございます。本のご紹介にも感謝します。
マスコミの暗部をマスコミ自らが取り上げることはまず期待できませんから、確かに楽観的にはなれません。
ノーパンしゃぶしゃぶ報道などもおそらく針小棒大な報道であったのでしょう。立派な仕事をしているなら、少々のことには目を瞑っても良いと思います、限度がありますが。それより叩きすぎて有能な人材がいなくなる方が心配です。
岩瀬さんの本には大臣が就任すると記者に金を配る習慣があり、断った記者はいなかった、記されています。まさに自分のことは棚に上げて、ですね。
松本様もおっしゃっているように、ネットに批判勢力が育つことを期待したいと思っています。
ナベツネが数年前、日経の私の履歴書に自身の現役記者時代を詳述してましたね。彼は大野伴睦の番記者をやってましたが、伴睦の使い走りみたいなことをやって、派閥の親分達に話しをつけに行くことまで書いています。言論人として、こういう事を恥ずかしげも無く公にする神経は全く理解できませんね。昨年だったか自民と民主の大連立を裏で画策したというのもむべなるかなと思います。伴睦に小遣いに困っているなら面倒みるとまで言われたそうです。政治記者というのは程度の差こそあれ皆同じなんでしょうね。
コメント、ありがとうございます。
昨年、自民党町村派の総会で、キングメーカーの森元首相は、「自分は麻生さんをやる。麻生さんには大変お世話になったことは忘れてはいけない」
と発言しました。
政治部の記者はこれを、こともなげに伝えています。お世話になったから首相に推す、つまり私事を理由に首相の選出にするということに何も感じなくなっているのでしょう。
現在の惨状はそういう感覚で首相が決めた当然の結果と言えるでしょうね。