池尾・池田本の中で、
実際の経済学はもっと動的に変化している。(中略)過去のある姿を固定化して批判している人の論点は、批判が出ているときにはそんなことは当たり前という感じになっていて、経済学研究はすでに前に進んでしまっていることが珍しくない。(P.139)
と書いたけれども、その典型ともいえる例が最近にもあったことをマンキューのブログを通じて知った。
この例における「過去のある姿を固定化して批判している人」は、クルーグマンである。その「無理解な経済学批判」(その簡単な内容紹介は、池田ブログを参照)に頭に来たらしいワシントン大学セントルイス校のD.レヴィンが、公開書簡をクルーグマンに送っている。
マクロ経済学の現状についてのコメントは、金融危機以後、多くを眼にするようになったが、ミネソタ大学のN. Kocherlakotaのそれは、上記のクルーグマンとレヴィンのやり取りに関連していて興味深い。
コチャラコタ(これが正しい発音かどうかは自信がない)は、まず全米のトップ17の経済学部に、1990年以降に博士号を取得して、テニュア(在職権)を得ているマクロ経済学者をリストアップする。そして、これらの米国におけるマクロ経済学研究の中核をなす若手の研究者達がどのような研究をしているかを知ることなく、マクロ経済学の現状について語ることはできないと言う(至極もっともである)。
コチャラコタ自身は、近年の研究動向に詳しいので、マクロ経済学の現状について語る資格があるとした上で、10の結論を提示している。
1.マクロ経済学者は異質性(heterogeneity)を無視していない。
2.マクロ経済学者は摩擦の存在(frictions)を無視ししていない。
3.マクロ経済学のモデル化は、限定合理性(bounded rationality)を無視していない。
4.マクロ経済学のモデルは、政府介入の役割を組み込んでいる。
5.マクロ経済学者は、キャリブレーション(calibration)と計量経済学をともに用いている。
6.いまは、真水学派と塩水学派の分断は存在しない。
--五大湖(真水)周辺の中西部のシカゴ、ミネソタなどを真水学派と呼び、大洋(塩水)に面する東海岸のハーバード、MITおよび西海岸のスタンフォード、UCLAなどを塩水学派と呼ぶことがある。
7.これらの研究者達は、ショックの源泉よりもその帰結により興味を持ち続けてきた。
8.マクロ経済学のモデルにおける金融市場や銀行業のモデル化は乏しいものである。
9.マクロ経済学はもっぱら数学的なもので、叙述的ではない。
--これは、マクロ経済学の対象は複雑で、直感的な推論だけで結論を導けるほど、簡単なものではないからだとされる。
10.マクロ経済原論の教科書は、この分野をよく表したものとはなっていない。
すでになされたエキサイティングな業績のほとんどが学部生用の教科書の中には取り入れられていない。これは仕方がない面もあるけれども、このことが、マクロ経済学者が何をしているかについての大変な誤解、素人の間だけではなく、他の分野の経済学者の間における誤解につながっている。
以上が、コチャラコタによるマクロ経済学の現状である。このうち、7.や8.のように、今般の危機の経験を踏まえると改善が求められる点も少なくない。
しかし、マクロ経済学は全く合理的な人間と完全な市場を想定した分析しかしてこなかったというような、最近は通説化している批判は、全く正しくない(2.と3.)し、代表的個人がすべてを決めているわけでもなければ(1.)、ましてや自由放任を主張していたわけでもない(4.)。経済学研究は、そうした批判よりはすでに前に進んでしまっているのである。
追記:Levineの読みは、池田さんの方が近いようなので、レヴィンに直しました。
コメント
誤解のないように付け加えると、私はクルーグマンの論旨に全面的に賛同して紹介したわけでは(もちろん)ありません。特にレヴィンが「金融政策はきかないから財政政策だ」というクルーグマンの議論について
Since we are recovering before most of the stimulus money has entered the economy – isn’t that evidence it isn’t needed?
と指摘しているのは、その通りだと思います。これは日本にもいえます。補正予算の半分以上が執行されていないのに、「景気対策のおかげでマイナス成長をまぬがれた」などという話は、自民党のプロパガンダならともかく、いやしくもエコノミストを自称する者のいうべきことではないでしょう。