豊臣秀吉の世界観とキリスト教や奴隷輸出禁止の真相

大河ドラマの秀吉ものは、だいたい、天下をとるまでが主体で、そのあとは、オマケ扱いだ。朝鮮遠征の扱いを韓国に遠慮して耄碌して起こした暴挙と位置づけないといけないとというのがNHKでは不文律だからである。また、キリスト教の扱いもキリスト教に変な配慮するからいい加減だ。日本人がキリシタンによって奴隷で売られていたなどと一生懸命隠さないとだめのようだ。

しかし「令和太閤記 寧々の戦国日記」では、むしろ、このあたりを依怙贔屓なく詳しく客観的に分析している。

私はもともとヨーロッパの歴史の方が得意で、中国や韓国の歴史についても本も書いているから、全体像をしっかり踏まえたうえで、寧々の眼から説明している。その一部だけですが何回かに分けて紹介する。本日は、キリスト教禁止の前後の事情です。

秀吉にとって、貿易上の利益からいっても、新しい文化や技術の吸収のためにも、南蛮文化の窓口である九州は、是が非でも秀吉にとって抑えておかねばならない要地でございました。さらに秀吉は、大陸進出の夢を信長さまから受け継いでいましたこともありました。どこで、德川家康をひねり潰すのをやめて、東国の治安維持をまかすことにして、九州攻めに取りかかりました。

九州遠征後、秀吉は筑前国筥崎(現在の福岡市東区)に陣を構え、貿易港博多(福岡市博多区)を直轄都市としたうえで、唐入り(明遠征)の基地とする予定だとし、博多を大改造して近世都市に変貌させました。

秀吉は、キリスト教や奴隷輸出の禁止、朝鮮や琉球王への服属要求、生糸の貿易独占、長崎の教会領回収、博多の大都市改造など、矢継ぎ早にそれまでの武家政権がきちんと取り組んでこなかった、国際関係の調整に乗り出しました。

わたくしたちが生きていた時代は、世界史でいえば大航海時代でございます。はるかヨーロッパから南蛮人たちがアジアへやって来て、珍しい文物を持ち込み、新しい世界についての知識を教えてくれました。しかし、彼らは西洋との交流だけでなく、東アジアの国同士の貿易も独り占めしてしまいそうでした。

秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)
出典:Wikipedia

キリシタン禁教令は、イエズス会の準管区長に任命された、ガスパール・コエリョという人の軽率な行いが禍したものです。日本文化を大事にした先駆者と違って、彼はキリシタン大名を支援し、フィリピンからの艦隊派遣を求め日本全土を改宗させたら日本人を先兵として中国に攻め入るなどと夢想していたそうです。

そして、フスタ船を建造して大砲を積み込み、秀吉に見せたので、高山右近や小西行長は、その船を秀吉に献上するようコエリョに勧めましたが、彼は応じませんでした。

この頃、さまざまな人がキリシタンの振る舞いについて、誹謗中傷も含んだ苦言を秀吉に持ち込んでいたところに、コエリョが威圧的な態度を秀吉との会食で見せたために、秀吉が怒って禁教令をだしたのです。

コエリョはマニラに援助を要請しましたが、キリシタン大名が秀吉に服従しているので手も出せず、天正18年(1590年)に失意の内に平戸で死に、そのことで、ローマと豊臣政権の関係は修復されました。

秀吉がキリシタンを禁止したのは、放っておくとポルトガルやスペインの植民地にされかねなかったからだとか、という人がいますが、それは大げさです。当時のポルトガルやスペインにそんな力などありません。奴隷の輸出は秀吉は止めさせましたが、それほど大きな規模に達してたわけでないので、禁止されて終わりです。

むしろ、秀吉は教会やポルトガル、スペインを、日本主導の新アジア秩序建設に協力させようとしたわけです。ですから、極端にはキリスト教化した日本がアジアの支配者になる可能性もあったのです。

それではどうしてキリスト教が流行ったかと云うことですが、私たちの時代は、武士も庶民も、古い道徳や秩序にとらわれない自由を手に入れた時代でございました。そういう世相の中では、毒にも薬にもならない古い信仰より、現世利益の教えで京都の町衆たちに力を伸ばした法華宗、蓮如上人の改革で農民たちの気持ちをとらえた一向宗、そして、一神教の論理が清新だったキリスト教などが、時代的な気分に合っていたのです。

しかし、イエス様の教えは魅力的とはいえ、南蛮人たちがそれを梃子に利益を得ようとしているということを、秀吉などは敏感に感じ取りましたし、日本人を外国に奴隷として連れて行くという不愉快な噂も聞こえてきていたので、キリシタン禁止令というかたちになったのですがゆるやかなものでした。

ところが、天正14年(1596年)7月に面倒なことが起こりました。スペインのサン=フェリペ号が、土佐に流れ着いたのです。秀吉が増田長盛を土佐に派遣し、日本を侵略するつもりがあるのでないかと尋問したところ、デ・オランディアという水先案内人が長盛に世界地図を示し、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服をしてきた。まず、その土地の民を教化し、そののちに信徒を内応させ兵力をもって呑み込むのだ」とお粗末な法螺を豪語をしたのです。

仕方なく、京にいた宣教師たちは慶長元年(1597年)12月に長崎で処刑されてしまいました(26聖人)。ただし、船の修理は認められ、無事にマニラに帰りましたが、これを機にフランシスコ会の活動は難しくなりました。彼らをローマ教会は聖人にしましたが、日本のキリスト教にとっては、大損害を与えた愚か者たちです。

カトリックの聖人たちには、この種のちょっとどうかと思う人たちは、一杯いますが、それを見直したら世界中大混乱になりますから、いまのところは臭い物に蓋です。

しかし、ポリティカル・コレクティネスの波でまもなく見直しが必要になってくるでしょうし、そのなかでこの26聖人も見直すべきかもしれません。