旧統一教会よりも深刻な左翼リベラルの洗脳

倉沢 良弦

野党は、引き続き旧統一教会問題で政府を追求するらしい。

それがどれほど無駄なことか、無意味なことかは憲法に照らしても明らかなのだが、あいも変わらず予算委員会でゴネ得を狙っている立憲民主党をはじめとする野党が数多い。

仮に国会議員個人と宗教団体の関係性を問うなら、信教の自由を許している憲法のあり方そのものを問い直すくらいの気概があるのだろうか?国会論戦の場で個人の内心問題について言及すること自体が、違憲であることは、拙稿でも触れた。それなら、憲法審査会で個人の人権を無視する国家にするべく、改憲案を打ち出して、旧統一教会問題に言及するくらいの覚悟が、立憲民主党はじめ野党議員にあるのか?と問いたい。

ajijchan/iStock

立憲民主党の長妻議員は、旧統一教会の信者はマインドコントロールをかけられており、それに対する対策が重要だと語った。

これは言い換えるなら、旧統一教会問題がオウム真理教並みの社会問題を起こしているとでも言いたいのだろうか?

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安倍元総理暗殺の原因は、犯人の怨恨によるとばっちりに過ぎなかった訳で、追求すべきは旧統一教会そのものであるはずなのに、何故か、野党は自民党が旧統一教会と結託して何かをしたとでも言いたいのだろうか?自民党の姿勢は、党として旧統一教会と関係を持ったことはなく、あくまでも議員個人が支持者として旧統一教会とお付き合いをしてきたに過ぎないと公式に見解を出している。

長妻議員は、自民党が組織的にカルト宗教団体と関係を持っていたとでも証明したいのだろうか?

本来追求すべきはそこには無い。長妻議員をはじめとする立憲民主党と日本共産党のやろうとしていることは、個人の内心を国家が統制する社会に向かう最初のきっかけになるだろう。これはとても危険なことであり、憲法の条文にある個人の信教の自由は守られなければならない。立憲民主党がリベラル政党だと自認するなら、信教の自由を守ることこそが、彼らの主張の正当性を証明することになるだろう。

その理由の一つは、以前も触れたが、旧統一教会の献金問題で訴訟を起こしたり表沙汰にして訴えているのは、献金した本人ではなく、2世と呼ばれる子供達だったり、財産を分与される予定だった親族だったりする。それこそ代表的なのは、安倍元総理を暗殺した山上容疑者がそうだ。本来、自分が得るべきだった財産を旧統一教会に持って行かれたことへの恨みが事件の原因だ。

しかし、お金を届けた本人が教団を訴えるならまだしも、家族、親族といえど他人であって、その他人が教団に金を返せと言うということは、個人の信教の自由に他人が介在することになる。これは明確に違憲なのだ。

長妻議員はもっともらしくマインドコントロールがどうのと言うが、政治が個人の内心に踏み込んでいいのか?という素朴な疑問の解答にはならないだろう。

政治家が旧統一教会を追求するなら、追求するだけの中身がなくてはならない。その意味で、旧統一教会が霊感商法以上の犯罪性のある事実を証明しなければならないだろう。ところが、モリカケの時と同じで、立憲民主党は旧統一教会の犯罪性の証明を与党である自民党に迫っているように見える。つまり、別の形での悪魔の証明を迫っているように思えてならない。

翻って、新興宗教が日本に台頭してきた歴史を見ていくと、第二次世界大戦以後、日本社会が戦後復興の中で宗教に対してなす術が無く、新宗教の教線拡大を許してきた歴史が見える。

大正から昭和にかけて、日本が軍国主義に傾倒することで、軍部に反抗する、あるいは天皇制に反する主張を繰り返す宗教団体が相次いで弾圧された。と同時に欧米各国との緊張感が高まる中、戦争に突入することへの世論が形成された。宗教団体の中には自らを守るため、国家神道に組み込まれる道を選択した団体もあったが、一部宗教団体はその主張を曲げることはしなかった。これら、国家神道に与することのなかった宗教団体とその信者は、戦後、宗教活動が自由に行われるようになり、隆盛を極めることになる。

日本は第一次世界大戦を経て、アジア諸国が欧米各国の植民地となり搾取されている現実を踏まえ、日本が中心となりそれらの国々を解放させる戦略をとった。同時に日本が国力を増大し、欧米列強と対抗でき得るエネルギー確保と経済圏の拡大を狙った。当然だが、それをよしとしない勢力がいたのも事実。

そして、その筆頭格が、共産主義者と新興宗教団体だった。

共産主義者は、法曹、教育、放送の世界に入り込み、日本のマイノリティ層を囲い込んで、あたかも共産主義、社会主義が理想のイデオロギーであるかのように徹底した洗脳を行ってきた。その子や孫にあたるのが、今の自称リベラル勢だ。

リベラル思想が悪いとは言わないが、よくよく自分達の思想、言動、行動を自省してみて欲しいと思うのは、私だけではないだろう。

日本で左派リベラルが異端の目で見られる背景は、マイノリティを支持層としたことも大きな要因だろう。確かに社会の中で少数派と言われる人たちには、社会的な弱者もいるだろうし、差別されてきた人たちもいるだろう。それらの人たちを排除するのではなく、同じ社会の一員として共生する社会システムを構築していくことは大事だ。ただ、繰り返し言っているように、マイノリティ保護の美名の下、過剰な権利保護を行うことや、法的保護を行うことは社会のシステムそのものを壊す危険性が極めて高い。

これまで、平等とか共存とか差別撤廃を理由にマイノリティ保護を叫ぶ国会議員やマスコミは、そのバランス感覚を欠いた主張が目立つ。世の中は多様性で成り立っているが、多様性を尊重することと社会を構成する大多数のマジョリティに個人の内心を抑制するようなことがあってはならない。それこそが、過剰な権利保護であり、人権侵害になることもある。

現在、戦後日本で台頭した新興宗教が持つ負の側面が、旧統一教会問題をきっかけにクローズアップされている。敗戦を経て、日本は民主主義の大切さを学んだ。それが日本国憲法であり、民法の整備に繋がっている。同時に弾圧されてきた宗教団体に、活動の自由が保障された。また、それら自由は軍国主義に対抗してきた共産主義者にも与えられた。そのどちらもが、自分達は抑圧されてきたという間違った認識に基づいている部分は、多分にあると思う。

新宗教の台頭と左翼リベラル思想の両方が、実は戦後を引きずっているように思えてならない。

中でも、1960年代以降、アメリカでは保守層への反発からよりリベラルな考え方が拡大してきた。その背景は、アメリカが移民によって成り立っている国家であることに起因する。そして、奴隷制度によりアメリカに来た多くのアフリカ系住民への差別も然りだ。

公民権運動が起き、アメリカは他民族によって構成されている国家である以上、肌の色で差別をすることの不条理をなくそうという動きが出るのは当然だが、一方でアフリカ系住民や中南米から渡ってきたエスニックアメリカン、アジア各国からアメリカンドリームの実現を目指してきたアジアンアメリカンが玉石混交としながら、アンダーグラウンドな世界を構成してきたことも事実だ。

アメリカに渡ってきた最初のアングロサクソンが開拓をおこない、自分達こそがアメリカ大陸を切り拓きアメリカを建国してきたとの自負から、アメリカ国内の保守層は白人が占めている。アメリカの歴史は正に建国以来続く、保守層と革新的リベラル層との闘争だった。200年強の歴史でそれらが融和するわけもなく、いやむしろ、その程度の短い歴史観であるが故に、リベラルな政治、リベラルな社会とは何か?の問いが繰り返されている。

日本も、明治維新を経て開国され海外の文化を取り入れ急速な発展を遂げたという意味では、同じかもしれない。ただ、違いは、アメリカの白人とて移民であるという点だ。日本人は明治維新のはるか昔から日本に生き、独自の文化を育んできた。

先述の通り、現在、リベラルを自称する政治家、活動家、支持者の多くは他国にそのルーツを持つ者も多い。また、他国にルーツを持っているが故にマイノリティがどういう存在かを知っている。だからこそ、社会のマイノリティに光を当てようとしている。

その意図は分からないでもないが、問題は、自称リベラルの多くはイデオロギーの根底に大正時代以後、日本で育まれてきた左翼思想、所謂、共産主義的思想を内在させている点で、このイデオロギーと社会問題を複雑に絡み合わせようとさせていて、それが一層、色んなことをややこしくさせているのだ。

曰く、反戦、反核、反米に彩られる言葉だけは美しい「平和」を前提に論を立てる。

ところが、この「平和」とはそもそも何か?の問いがなされないで、言葉だけが先行しているのが、今の自称リベラルの本質なのだ。

旧統一教会問題は確かに現代日本史の負の側面を写している。と同時に、「平等」とか「平和」といった美名を隠れ蓑にしたリベラルな思想性をよしとすることで、社会に歪みを起こしている層がいることも問題だ。

現在、防衛予算についても喧々諤々の議論が噴出しているが、問題は財源ではなく、「防衛」予算が大きくなることが日本が戦争を積極的に起こそうとするかのような印象操作を繰り返す、日本共産党や立憲民主党議員の言葉なのだ。

国連憲章制定以後、国連加盟の全ての国は、先に手を出した国は敵国認定されるという国際法が適用される。先の大戦の最大の反省は「武力で他国に侵略し、国土や国民、財産を奪う戦争をしてはならない」ということであり、国連憲章が制定されて以後、全ての国は日本国憲法九条と同じ国際法が適用されているのだ。つまり、アメリカも中国もその他の国も全て、軍事予算は自衛の為の防衛予算が建前だ。

だから、無差別な殺戮を行う核攻撃、生物兵器、クラスター爆弾等の武器使用は禁じられている。

外交は常に相互主義が前提である。近隣諸国で軍備の増強を行う国があれば、自国の防衛のために必要な予算計上が為されるのは当然で、それは相手を威嚇する意味ではなく、民主主義で主権者である国民の総意で選ばれていない為政者が、武力で以って他国に攻め込まない保証は何もない。だからいつそうなってもいいように、相手が軍備増強を行う規模に合わせて自国の防衛力を高めるのは至極、当たり前の話なのだ。

自称リベラルで「反戦」だの「平和」だのお題目のように唱えるなら、相互主義で防衛予算を議論する日本ではなく、際限なく軍事予算を増強する中国にこそ、文句を言うべきなのだ。

この点が、私が言う社会の歪みだ。

この議論を抑えていないマスコミ報道や、討論番組があまりにも多い。

それはつまり、先の大戦で敗戦国になった日本は、未だ歴史の悪者であると言う左翼思想のレッテルが教育や放送、法曹の多方面にアメーバのように侵食したまま根を下ろしているからだ。

戦後の新興宗教の台頭で起きてきた社会問題も問題かもしれないが、私は自称リベラルの中に根深くある左翼思想が撒き散らした間違った「反戦」や「平和」の概念の方が、はるかに罪が大きいと考えている。