自由と平等は常に緊張関係にある概念だ。
平等を徹底しようとすれば、各人の自由を大幅に制限しなければならない。
完全平等を実現しようとすると、力の強い者には重りを付けて、知能の高い者には常時ノイズが発生する機器を装着するなど、ゾッとする制限が必要になる。
各人の自由を最大限尊重すれば、格差が生じる。
格差が大きくなれば平等が損なわれ、不平等が拡大すれば社会全体が不安定になりかねない。
自由と平等をどのように調和するかが問題となる。
従来から「機会の平等」を確保すればいいという見解がある。
生まれた時の条件(スタートライン)を平等にすれば、その後、努力した者が富を得ても問題ないという考え方だ。
しかし、人間には遺伝的要素があるので、生まれた時の条件を同一にしても本人には責任のないところで格差が生じる。
また、偶然性や運に左右されることも大きい。
マイケルサンデル教授は、「ハーバード大学に入学してくる学生には長子が多い。長子として生まれたかその後で生まれたかは運次第だ」と説く。
もっと深刻なのは、生まれ月によって人生が左右される可能性が高いことだ。
学業でもスポーツでも、4月から6月の間に生まれた人間と、1月から3月に生まれた人間とでは、圧倒的に前者の方が有利だという研究結果がある。
小さい頃に勉強やスポーツができた子どもは、周囲から期待され「より多く」与えられ、その後の人生でも多くのメリットを享受するからだと言われている。
余談ながら、私の東大時代の知人たちは、やたらと4月から6月までの間に生まれた人が多い。
莫大な報酬を手にしているスポーツ選手も、生まれた時代が異なっていれば莫大な報酬は得られない可能性が高い。
大谷翔平選手でも、身分制度で縛られていた江戸時代に農民の子として生まれれば、天賦の才能を発揮する機会はなかっただろう。
このように、偶然や運に左右されるのだから、たまたまお金持ちになった人間に多くの課税をすることは許されるという考えがある。
これに対してリバタリアニズムは断固として反対する。
リバタリアニズムは自己所有権という概念を根拠としているので、自分の労働の成果に多額の課税をするのは「国家による強奪」だと説く。
功利主義であれば、ある程度の課税は認めるのが理論上の帰結だ。
社会が101人で構成されており、100億円稼ぐ人が1人、残りの100人は100万円しか稼げないとしよう。
100億円稼いだ人から1億円を課税して100人に配れば、社会全体の満足度はアップする。
しかし、どの程度まで課税を認めるかが問題だ。
2億円稼ぐ人が1人で、500万円稼ぐ人が100人だったらどうか?
2億円稼いだ人から1億円課税して100人に分けることになれば、正しい配分と言えるかどうか疑問を抱く。
リバタリアニズムも功利主義も、「働くインセンティブ」が失われるような再分配は認めない。
リバタリアニズムは当然として、頑張ってお金儲けをしようというインセンティブがなくなって生産性が落ちれば、社会全体の効用が下がるので功利主義的立場からも認められない。
以上のように、自由の制限と平等の緊張関係をどのように調和させるかは、極めて大きな問題だ。
編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年11月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。