ローマ・カトリック教会の第265代教皇、ベネディクト16世(在位2005年4月19日~2013年2月28日)が生前退位を決意したのは「2012年9月末」だった。約8年間の教皇在位期間、そして生前退位後から死去までの約10年間、秘書としてベネディクト16世に仕えてきたゲオルグ・ゲンスヴァイン大司教(66)はこのほどメディアとのインタビューの中で、「ベネディクト16世は2012年9月末に生前退位を決意していた」と証言し、注目されている。
当方はこのコラム欄でベネディクト16世の生前退位決意時期について「2012年9月頃ではないか」と何度か書いてきたが、その予測は当たっていたわけだ。独民間ニュース専門局ntvは1月3日、同インタビューを放送した。
ntvのインタビュー
ゲンスヴァイン大司教は「ベネディクト16世がいつ頃、生前退位を決意したのか」との質問に対し、「2012年9月末だった。それを聞いて自分は驚き、『教皇、(ローマ教皇の生前退位は)不可能です。全く不可能なことです』と強調した。そして『教皇としての職務が負担ならば軽減するなど調整しなければならないし、それは可能です』と伝え、ベネディクト16世を説得した」という。
それに対し、ベネディクト16世は、「死ぬまで教皇の座に留まり続けることは自分の人生ではない。(生前退位の決定は)議論するべき問題ではもはやない」と述べ、生前退位の決意を覆す考えがないことを強調したというのだ。ゲンスヴァイン大司教によると、ベネディクト16世は、「自分は死ぬまで教皇を務めてきたヨハネ・パウロ2世の生き方をコピーする考えはない」と述べたという。
ベネディクト16世は2013年2月11日、枢機卿会議で、「ローマ教皇の職務を遂行するだけの体力と気力がなくなった」と述べ、生前退位の決意を正式に初めて表明し、「速やかに後任教皇の選出の準備に取りかかるように」と要請している。それを受け、メディアはベネディクト16世の生前退位の理由は健康問題にあった、と報じてきた。ただ、ゲンスヴァイン大司教からは、同16世の健康状況が当時、退位しなければならないほど厳しかった、といった話は聞かない。
2012年のカレンダーを振り返ると、ベネディクト16世は同年3月23日から28日までメキシコ、キューバを訪問し、同年9月14日から3日間レバノンを初訪問している。気候が全く違う南米や中東への旅は高齢教皇にとって体力的に大変だったかもしれないが、ペテロの後継者の座を降りる決意に走らせたとは考えにくい。
重要な問題は、ゲンスヴァイン大司教の「2012年9月末」説が事実とすれば、ドイツ出身のベネディクト16世に当時、何があったのかだ。2006年からベネディクト16世の個人執事だったガブリエレ氏が同16世の執務室や法王の私設秘書、ゲオルグ・ゲンスヴァイン氏の部屋から教皇宛の個人書簡やバチカン文書などを盗み出し、その一部を暴露ジャーナリストに手渡すという不祥事を起こしている(通称バチリークス)。バチカンは当時、その対応に大慌てとなった。同事件はベネディクト16世にとってもショックだったことは間違いないが、同16世の健康と気力を失わせ、生前退位の決意を固めさせたとはどうしても思えない。ちなみに、「ベネディクト16世が12カ月以内(2012年11月まで)に殺される」というバチカンの機密書簡内容がイタリアの一部メディアで当時、報じられた(「枢機卿の『法王殺人の陰謀説』」2012年2月13日参考)。
独週刊誌シュピーゲルは2012年6月、「疲れ切った人」という見出しでベネディクト16世のプロフィールを報じた。姉は修道女になり、兄は教会の少年合唱隊のリーダーになるなど、ベネディクト家の3人は皆、教会に献身した。いずれも生涯独身だった。
ベネディクト16世は神学教授などを経て、バチカン教理省長官になり、ヨハネ・パウロ2世の死後、その後継者に選出された。ゲルハルト・ルードヴィヒ・ミュラー元教理省長官が証言しているように、ベネディクト16世は教皇というより学者だった。ベネディクト16世は教会指導者として13億人の信者たちを導く牧会者ではなかった、という点ではバチカン専門家の評価はほぼ一致している。
2012年8月、ベネディクト16世が教理省長官時代から書き続けてきた「ナザレのイエス」3部作の最後の第3部「幼少時代のイエス」が完結している。同16世が「死ぬ前までに書き上げたい」と全力で取り組んできた代表作だ。聖職者の未成年者への性的虐待事件、バチカン銀行の不正発覚、そしてバチリークスと不祥事が続く中、「ナザレのイエス」3部作の完成はベネディクト16世にとって大きな喜びだったはずだ。同16世の生前退位決意と「ナザレのイエス」の3部作完成が関係があるかは分からないが、なんらかの影響を与えたことは排除できない(「法王の『イエス伝』3部作,完結」2012年8月5日参考)。
2012年9月3日、世界基督教統一神霊協会(当時、通称統一教会と呼ばれた)の創設者文鮮明師が死去している。バチカン・メディアは一斉に「文鮮明師死去」と大きく報じた。同師は1992年8月、国際会議に参加した学者や文化人を前に「メシヤ宣布」を行い、自らを「再臨主」と公に宣言。そのため、既成のキリスト教会からは異端者と批判されてきた宗教指導者だ。
ところで、ベネディクト16世が2013年2月11日、生前退位を表明した直後、バチカンのサンピエトロ大聖堂に雷が落ちた。イタリア通信ANSAの写真記者がその瞬間を撮影することに成功している。「神からの徴(しるし)」と受け取る信者たちが出てきたほどだ(「法王退位表明後の神の『徴』」2013年2月14日参考)。
ベネディクト16世の生前退位決意が「2012年9月末」に下されたといゲンスヴァイン大司教の発言は、預言者聖マラキが「ベネディクト16世を最後のローマ教皇と見なしていた」ことも含め、同16世の生前退位の背景について、再度慎重に検証する必要があるだろう。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年1月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。