今年2月末に幻冬舎新書の一冊として刊行した拙著『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』は、幸いなことにかなり売れている。
3月16日朝の時点で、誰でも見られる文教堂のランキングでは、新書で1位、総合で2位である。編集者から聞いたところでは、その前日、紀伊国屋書店の実際の売り上げを示すパブラインで総合4位に入っていたという。
売り上げが伸びたのは、15日に朝日新聞と毎日新聞で全5段のおよそ3分の2を使った広告が出たことによる。ただし、広告が効果を発揮するのは、実際に本が売れているときで、売れ行きを加速することはできるが、決して初速をつけてくれるものではない。それは、これまで本を出版した経験がある方はよくご存じのことだろう。
基本的に本は売れるものではない。私など、現在どこの組織にも属さず、いわば「筆一本」で食べているわけだが、ヒットを飛ばすことは実に難しい。そもそも、重版される本を出すこと自体が相当に大変なことだ。
ちなみに昨年、私は11冊の本を刊行したが、そのうち重版されたのは2冊だけである。エンターテイメントではない人文書は、それほど売れるものではない。ところが、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』は、日本の仏教の宗派について解説した、ある意味かなり地味な内容の本なのに、エンターテイメント以上に売れているのだ。
それはいったいなぜなのだろうか。
まず売れ方だが、アイドル関係の本に見られるように、予約の段階から売れていたわけではない。売れはじめたのは、実際に書店に並んでからだった。本が搬入された初日の2月27日、紀伊国屋のパブラインでは3冊売れたと聞いた。編集者は、それを「幸先がいい」と表現した。
29日が発売日で、すぐに文教堂の新書のランキングで50位以内に入った。著者が、売れ行きをたしかめられるのは、これとアマゾンなどのネット書店のランキングである。とりあえず、出てすぐに、実際の書店で本がある程度売れているということは、その後の売れ行きを予想させるものである。
広告が出たのは3月3日の日経新聞と4日の朝日新聞で、これは、同じ時期に出た新書全体の広告だった。ただし、出版社は売れると判断したのだろう、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』はスペースが一番多く、右端で、しかも著者の写真つきだった。
これで売れ行きは加速され、ランキングを急上昇していく。それに対応して、5日に2刷、14日に3刷が決定した。ともに3万部の増刷である。
この本の最初のアイディアは、同じ幻冬舎新書から2007年に刊行した『日本の10大新宗教』がベストセラーになったときに遡る。こちらは、これまで25万部近く売れているが、著者としては「意外な成功」だった。主な新宗教の教団を取り上げて、その成り立ちや特徴について解説を加えたものであり、真如苑のことが何かと話題になるなど時事性はあってものの、実用性は欠いていた。
新宗教について客観的な立場からまとめて解説してくれる類書がなかったことが、歓迎された原因のようだった。さらに、出版社の側が、重版されてから帯を変え、「新宗教には、なぜ巨大なカネが集まるのか?」としたことも、読者の関心を呼ぶことに結びついた。広告も、そうした内容のものに変わっていった。
この成功を受けて、次の企画はとなったとき、『日本の10大新新宗教』というアイディアも出たが、もう一つ私が考えたのが、『日本の10大仏教宗派』というものだった。仏教宗派のことも意外と知られていないし、読者が新宗教の教団に興味があるなら、既成仏教の宗派にも関心があるのではないかと考えたのだ。
これが今回の本に結びついていくわけだが、その時点では、実際に本を出すという話にはならなかった。今から振り返ると、私自身にもそれを書き上げるだけの用意がなかったように思う。
その後、私は『教養としての日本宗教事件史』(河出ブックス)、『日本宗教美術史』(芸術新聞社)、『日本を騒がせた10人の宗教家』(静山社文庫)といった本を刊行した。これらの本では、仏教宗派やその宗祖についても言及しており、それを書く作業を通して、私は日本の仏教宗派についてその全体像を描けるような準備をしていった。『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』のために、そうした本を書いたというわけではないが、すでに書いている本は新しい本を書く際にもっとも役に立つ。
そして、2010年にはやはり幻冬舎新書の一冊として『葬式は、要らない』を出し、これは、『日本の10大新宗教』以上のヒットになり、30万部近くが売れた。私の著書のなかでもっとも売れたものだが、反響も大きく、仏教界からはかなりの反発も受けた。
『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』の冒頭に、私たちが宗派を気にするのは葬儀のときだという話をもってきたのも、葬儀に対する関心が強いということが、この本を出してよくわかったからだ。
そうした経緯を経て、昨年の9月6日から書きはじめた。第1稿の250枚を書き上げたのが10月30日のことだった。その後、編集者からの注文などを入れて第2稿を作り、タイトルが決まった段階で、またそれに合った形で「おわりに」を書き加えていった。そして、初校、再校の作業を経て、刊行にこぎつけたわけである。
これまでの経験からして、編集者と作業を進めていく上で重要なことは、こちらの意図が十分に伝わっているかどうかという点である。最終的にそれは、発売日の数日前に見本が届けられたときに分かる。
幻冬舎新書の場合、カバーの裏に本全体の紹介が載せられる。帯には、表にキャッチコピー、裏に本で取り上げた内容、そして、背表紙の部分に楕円で囲まれた5字の決まり文句が入る。これらはすべて、編集者の側がする仕事で、私は見本を手に取るまでどうなっているかを知らない。途中で教えてもらうこともできるかもしれないが、あえてそれはしていない。
『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』の見本を受けとったとき、「なるほど」と思い、そのすべてに納得がいった。5字の決まり文句が「親鸞も驚愕」となっているのには、思わず笑ってしまった。
タイトルの入れ方にしても、実は、カバーと本自体では違っていた。ともにタイトルは3行に渡っているが、本の方では、真ん中の行が「日本」だけなのに、カバーでは「日本でいちばん」となっている。編集者は、ここでかなり悩み、最後の段階で「日本でいちばん」に修正したらしい。見比べると、カバーのものの方がはるかに良いように思った。
見本を受けとってそれに著者が納得できるということは、編集者に本の意図がうまく伝わっていることを意味する。それは、編集者だけではなく、読者にも伝わる可能性があることを意味している。
見本が届いたとき、完璧だと思えることは意外に少ない。これは行けると思ったものでも、見本を見て、「どこかがおかしい」と思うことがある。そのときはやはり売れない。つまり、著者の意図がうまく伝わっていないのだ。
今回の本でも、危うい場面があった。私は、小見出しをつけないで文章を書いていき、小見出しはすべて編集者に任せることが多いのだが、初校の段階では、「あれれ」と思うような小見出しがかなりあった。
編集者は、私が書いた内容に即して、そのまま小見出しをつけてくれているのだが、ある意味それが正直すぎて、客観的な立場から仏教宗派を解説するという意図からずれていたのである。
それに私は修正を加えていったが、この作業を通して、私の意図するところが編集者にうまく伝わるようになり、それが見本に反映されたのではないだろうか。今回は、こうした編集者とのやり取りの作業が、全体にうまくいったと言える。
実際、本の編集作業を重ねていくにつれて、編集者の方も、「売れそうな気がしてきた」と言っていた。まさにそれが的中し、今回はヒットに結びついたわけである。
著者である私には、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』が売れたことに対して、「してやったり」という思いがある。万事うまく行き、結果も出た。しかもそれは偶然の結果ではなく、かなり必然的なものに思えるからである。
ではこれから、私が次々に大ヒットを飛ばしていけるかと言えば、必ずしもそうはならないだろう。ヒット作を生むには、最初に明確なコンセプトがあり、それが誰にでも分かるもので、長期にわたる準備も必要だ。
編集者とのあいだの綿密なやり取りも要るし、細かなすり合わせがうまくいかないと、結果は出ない。編集者にも、あるいは出版社自体にも、この本をなんとしても売るという気持ちになってもらわなければならない。
時間的な制約もあるし、著者である私が、思っていた通りのものを書けないということもある。売れる本を出すということは、やはり相当に難しいことなのである。
島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」