日本の(とくに文系の)大学生があまり勉強しないというのは、いまに始まったことではない。恥ずかしながら、私自身も、大学生の頃は決して勉強していたとはいえない。しかし、先輩も、そのまた先輩も、それ以前の先輩も、たいして勉強しないでもやって来られたからといって、いまの学生が同じように勉強しないでやっていけるのだろうか。この問いに対する答えは、たぶん否(NO)である。
現在、雇用をめぐって、少なくとも次の4つの構造的で不可逆な環境変化が起こっている(起こってしまった)。
(1)日本経済の期待成長率の低下
企業規模が年々大きくなっていくと期待できるわけではないので、長期雇用を保障したり、年功賃金制を維持することが必ずしも経済合理的ではなくなってきている。
(2)グローバル化
グローバル化には、格差を拡大する側面と格差を縮小する側面とがあり、全体的には中立的であるとされる。ただし、日本の場合には、中国をはじめとした近隣諸国の産業化に伴い、それらの諸国との間で「要素価格均等化」の圧力を強く受けるようになっている。
(3)情報技術革新の進展
広範囲にわたる情報処理がコンピュータに委ねられるようになり、ホワイト・カラーの「中抜き」現象が起こっている。比較的時間をかけて技能を積み上げていけるような職種が減少している。他方で、高度な判断力や専門的な知識を持った人材に対する需要は高まっている。
(4)ワーク・ライフ・バランス
労働力人口中での女性や高齢者の割合が高まり、それぞれの家族形態やライフスタイルに応じた多様な働き方の形態が求められるようになってきている。
このうちの「要素価格均等化」について補足説明をすると、労働力そのものを海外から受け入れなくても、自国での労働集約的な製品の生産を止めて、労働集約的な製品は海外から輸入するようにすれば、間接的に労働力を輸入したのと同等の効果が生じる。同じことは、土地についてもいえ、土地そのものは輸入できなくても、農産物は海外から輸入することにすれば、自国の農地を他の用途に転用できることになる。したがって、貿易が活発に行われると、それだけで両国の間で賃金や地代の水準のさや寄せが起こることになる。これを経済学では「要素価格均等化」といっている。
(2)のグローバル化の結果として、こうした「要素価格均等化」のメカニズムが容赦なく作用するようになっており、日本の労働者の賃金には結果的に引き下げ圧力が強くかかっている。そもそも「同一労働、同一賃金」が公平であるとすれば、日本人だからというだけで、同一労働をしているにもかかわらず他の東アジア諸国の労働者よりも高い賃金を得るというのは妥当とはいえないことになる。人的資本としての生産性の高さがあってはじめて、高賃金は正当化される。
また、(3)の情報技術革新の進展は2極化をもたらす基本的な原因になっており、かつて文系の大学卒がやっていたような「そこそこの仕事」がなくなっている。単なる情報処理をやるだけなら、PCの支援が得られる現状では、大学卒の労働者は過大能力であり、「評価」や「判断」の必要な職務をまかせるには過小能力だという状況になっている。こうした状況を反映して、米国では高卒と大学卒の賃金差が縮小し、大学卒と大学院卒の賃金差が拡大する傾向がはっきりと出てきているという。
こうした環境変化に伴って、従来型の日本的人材養成システムは、もはや時代遅れなものになっている可能性が高い。すなわち、企業は地頭(じあたま)主義で、大学には選抜機能しか期待しない。それゆえ、大学の役割は入試だけで基本的に終わり、在学中、学生はほとんど勉強しない。そして企業に入ってから社内で鍛える、ということでは、今後要求されるような人的資本としての生産性の高さは達成されないと懸念せざるを得ない。
実際、従来型の日本的人材養成システムから生み出される人材は、企業特殊的な「ジェネラリスト」で、汎用的な専門能力は決して高くない場合が大半である。それゆえ、所属する企業が成長しない限り、十分に報われることはない。しかし、もはや(1)のように日本経済の期待成長率は低いのである。したがって、より外部教育機関(例えば、専門職大学院)を活用した人材養成と、そうして養成された人材に適合的な労働環境の提供を図っていくべきだということになる。
ところが、現実の日本は、他の先進国と比較したら顕著に、アジア諸国の中でも相対的に低学歴国になってしまっている。要するに、もっぱら学卒止まりで、大学院生の比率が格段に低い(この点については、元文部科学省の大森不二雄氏による日本経済新聞10月23日付け「経済教室」の記事を参照されたい)。その上で、大学生があまり勉強していないということで、どのような将来が期待できるのであろうか。
たぶん、5~15年後くらいには、20~40歳代の日本人は、同じ年代の中国人や韓国人、他の東アジアの人々と全く同じ土俵の上で競争しなければならなくなると思った方がよい。そのとき、相手は当然のように修士号程度の学位はもち、流暢に英語も話すだろう。そのときになって、「大学生のときにもっと勉強しておけばよかった」と後悔しても取り返しはつかない。われわれの世代も、同じような後悔をよくするけれども、いまの学生以下の世代においては、身をもって悔いることになりかねない。
学生諸君、いまから勉強しておいた方がいいよ。老婆心ながら、そう思う。
コメント
全くその通りだと思います。
私は前職でアジア諸国の若手社員と日本の若手社員を比較する機会が多くありましたが、一般的に言って、彼等の方が文科系の基礎的スキルは相当高く、且つ、向上心は比較にならない程に旺盛でした。このままでは、間違いなく日本の若者達は負けるでしょう。
最近の日本では、「ジニー係数」とか「貧困率」とかの数値を殊更に強調する人達の影響もあってか、若者達の間に「あまり根拠のない被害者意識」が蔓延しているように思えますが、他のアジア諸国に比べれば、「日本の若者達の豊かさのレベル」は相当高いように思えてなりません。
池尾先生もご指摘の通り、「日本人なのだから、他のアジア人と比べて豊かなのは当然」と表立って言う人はまず居ないと思いますから、今のレベルを失わないためには何をしなければならないかを、それぞれの人が是非とも真剣に考えてほしいと思います。
日本の企業は、理工系なら修士を採りますが、人文社会系では修士の需要はまったくありませんし、博士はなおさら就職先がなく、就職難になっています。
大学院は研究者養成所以上でも以下でもなく、企業で必要な実務能力を養成しているのではないのですから、仕方がありません。
学生に、闇雲に「勉強しろ」と叫ぶ前に、アカデミズム以外の世界でも役立つ教育訓練の場を作ってはいかがでしょうか。
端的な例を挙げると、語学能力を高めたいなら、大学は効率が悪いです。週1回程度の「輪読」をやっているだけなのですから。大学に通うより、語学専門学校に通った方がいい。
はじめまして。
はてなブックマークから拝見し、
興味深い記事でしたのでコメントします。
私は慶應義塾大学の法学部に所属する
現役の大学生です。
仰る通り、文系の大学生は驚くほど勉強していません。語学の授業のために昨日は一時間ほど予習をしたと言うと、学生どころか教授まで珍しがるほどです。
ただ、a_inoueさんがコメントされているように大学システムそのものが、何かを効率的に学ぶには向いていないと思います。資格や
ITスキルを学ぶことも大切ですが、いわゆる一般教養を深めることが大学の本来の目的だったと思うのです。
これからは大卒ではなく、法律専門学校卒や経済専門学校など何かに特化した教育機関が増えて、またそれらの機関から就職する人が増えるのではないでしょうか。
私の友人の米国人が日本の医学専門誌(英文)に掲載される日本人研究者の英文のPROOF READINGをやっていたが、英文自体に間違いが多いだけでなく、文章自体が冗長で半分以下の長さの文章に短縮できる場合が殆どであったが、そのように訂正すると原作者からクレームが出て困ったと話していた。
日本の国語教育では教科書に文学作品を掲載する場合が多く、作品の文学的解釈に偏りすぎる傾向がある。英米の国語教育では、文章の論理性、簡潔性の重要さを教える。このような国語教育の差は文章の作成能力、論理的思考能力の差となって現れ、社会人となってからの彼我の実務能力に大きい差がついてしまう。パソコンで英米人が文章を作るところを見た事のある人は、そのスピードに驚嘆したはずだ。日本人の10倍以上である。議事録などは会議終了後5分以内に出てくる。
大学の英語教育も英文科出身の教授が小説の逐語訳をさせるだけで、語学力の向上には役に立たない。国語と英語教育は根本的にやり方を変える必要がある。
> 2
> 学生に、闇雲に「勉強しろ」と叫ぶ前に、アカデミズム以外の世界でも役立つ教育訓練の場を作ってはいかがでしょうか。
池尾氏の書き込みから、どうしてこういう反応が返ってくるのか分からない。
職業訓練を施せばそれで良しという話ではなく、情報技術革新の進展による二極化、ホワイト・カラーの「中抜き」を問題にしている。つまり、余程の高度な知識や技能を身に付けていかなければ、これからの社会では「技術」とは認められませんよ、という話では?
そもそも、氏がわざわざ「老婆心ながら」と付け加えてまで穏当な言い方をされているのに、「闇雲に「勉強しろ」と叫ぶ前に」~とは、どこを読めばそのような解釈が出てくるのか・・?最近こういう反応が多過ぎるのでは?(これも松本氏が言われる「あまり根拠のない被害者意識」蔓延の現れなのか??
思わず書きますが、上の日本の学生さんには、当事者意識がないみたい。
これからは英語が必要だと思えば英語を一生懸命勉強しましょう。ネットがあって、電子辞書や翻訳サイトもあって、英文なんかは掃いてすてるほどアップされていて、映画のDVDには字幕までついてる。この環境でそれで英語ができませんというのは、単なる努力不足ですよ。
誰かに何かやれと言うまえに、自分のことなんだから自分でやれと思います。「自ら学び考える」教育を受けてきたはずなのに、全然成果が出てないですね。文科省は丸ごとムダなのかと思う。
>(4)ワーク・ライフ・バランス
これはどういう風にかかわってくるのですか?
学生が勉強しないのは、何を勉強したら将来役に立つのかわかってないからだと思います。
だからいっそのこと、大学に入学した直後から企業の採用活動を解禁してはどうでしょう。
もちろん、希望すればそのまま働き始めてもいいことにして。
勉強しないなら、生産活動に従事した方がましですし、たとえ、企業特殊的でも仕事をしていれば何か得るものはあるはずです。
そして、勉強が必要だったと思えば、もう一度大学に行けばいいんです。
その時には勉強するモチベーションも高いはずなので効率もいいはずです。
原論というか、理論の科目があれば、実態分析の科目は必要ないと考えているのでしょうか?
そうだとすれば、日本経済論と同様に、アセアン経済論など具体的な地域経済論や、経済史系の科目も必要ないと考えているのでしょうか?
>経済原論と別個に日本経済論という科目があるのは、本来的にはおかしいこと。経済学が輸入学問だったから、そんな分離が生じた。日本の経済学者もそろそろ日本経済論そのもののミクロやマクロの教科書を書かないと、八田達夫『ミクロ経済学?・?』はその先駆けといえるかもしれないが...
日本の人材育成システムが行き詰まっているのはわかりますが、それは社会システム全体の問題です。池尾先生も仰っていますが、日本企業は地頭主義です。実はここがポイントで企業が意識変革しなければ教育システムも変革できません。例えば採用システムです。多くの職業でいきなり専門的知識を要する分野は限定されますし、また現実的に経験を積めば学歴を要しない分野もあります。しかし現在の企業の採用システムでは大卒が条件となっていて、それが本来大学に行かなくてもいいあるいは行きたくない学生が大学に行かざるを得ない状況を作っています。
仮に高卒へ門戸を開けば現状高卒就職率40%も改善されるでしょうし高校や大学の教育システムも変革する余地が生まれます。大学であれば文系の大教室教授から解放されより細かい講義が可能になります。もちろん大学進学者が減少し大学が淘汰され研究者のポストも減少しますがこれに商業高校の復興や商業系高専創設によりポスト問題と教育システムも改善されるのではないでしょうか。
池尾先生の論旨の通りだと思います。司馬遼太郎の坂の上の雲に明治時代の日本人が「自分が1日サボることは1日、」国の進歩を遅らせる」という気概があった、と書かれていますが、その覇気は失われました。
私は数学と英語がからっきしダメで世界史と国語のみで受験戦争に挑み、あえなく玉砕しました。しかし今、」、再度この2教科へ挑戦したいと思っていますが、この様に思っている中高年は多いと思います。
そのような人が再チャレンジする土壌も必要ではないでしょうか。
はじめまして。
文系の学生がターゲットにされていますが、理系の学生に関して私見を述べたいと思います。
理系の学生は勉強している。私自身も、大学生の頃は勉強していた。少なくとも当時の文系の学生よりは。
問題は、企業に入ってからだ。上司から言われた課題をこなし、特許を書き、製品のデバッグに昼夜を問わず働く。理系の学生はバカがつくほど真面目なんです。その企業が永遠に成長すればそれで何の問題はない。
残念ながら、時代は変わりました。ご指摘の(1)ですね。
もはや技術だけに閉じこもっていても幸せは来ない。技術の改良ではなく、売れるもの、新しいもの、新しい価値の創造が必要です。経営者としての視点も備えて無ければ、技術者の本望である製品開発に没頭することが出来ない時代になった。ぼーっとしていると部署や会社が簡単に無くなる時代になった。
そのためには、専門以外の勉強もしなければいけない。大学に入り直す事も良いかもしれない。野に出てベンチャーに参画するのも良い。
理系の学生は勉強している。しかし、それは大企業の扉を開く為のものではない。技を磨き、衣を羽おり、旅に出かけよう!道場破りで鍛えよう、その為の基礎と志を学生時代に勉強して欲しい。
先日、納品された「商品の外装」に破損がありメーカーにクレームを入れ検品させた、遣ってきた営業社員とバイト数人に倉庫で作業させたところ、別の在庫商品に座って作業しゃがった。 それを指摘したところ、バイトはともかくとして、引率の社員もポカンとした顔した。
そこそこの会社の営業社員だから大卒だろうと思われるんだが、
自分が何のクレームで来たのか理解してないのか、他社の商品だから気にしないのか? 腰掛けた商品が梱包されてるとは云え、
単価が支払うバイト代の1.5倍であり1梱り潰したら日当を越えることぐらい同業者なら解る筈なのだが?
水戸黄門の定番ネタみたいな実話。
>11.
どうも貴重なご意見、有り難うございます。
私の学生時代の友人は、(母集団の比率を反映して)工学部生が多かったのですけれども、どうも彼らのことはよく理解できていません。その将来も幸福であったかどうかは疑問です。
いま同僚ですけれども、大学の1年先輩の深尾光洋さんの思考方法も時々いかにも工学部出身だと思うけれども、理解不能なところが文系の私にはあります。
>12
コメント12 で、納入業者を「メーカー」としたが、「工学系のアスペ君の話し」に取られるのは本意でないので訂正したい。実際には商品は海外生産なので輸入業者なわけです。遣ってきた営業社員は「文系」。
しかも,横文字・カタカナ社名、こちらは、漢字社名で創業者苗字。
理系の方にとくに多いのが、日銀はリフレしろ、官僚を増やせ、財政出動でバラまけですね。
池田信夫さんの記事を見ればわかりますが、純工学的な発想が強いために、短期で合理的な均衡点があると錯覚している。社会科学では、問題が起きると短期でそれらを解決することが必ずしも望ましいといえないことが多い。
社会科学は選挙とかメディアとか行政とか制度とかいろいろな複雑系の主体が内部化されているので純理系の方には理解できないからストレスを感じるのはわかります。
しかし、あらゆるインフラがコストゼロなので理系の方々はベンチャーを創って文系を排除することもできるのです。
>いわゆる一般教養を深めることが大学の本来の目的だったと思うのです。
米国で逢う学生にこういう感覚の学生に逢ったことがなかったので、当の日本の学生のホンネの感覚が知れて新鮮な感じがします。多くの日本の学生がこのような感覚なのでしょうか?