少し前ですが、日経に興味深いコラムがありました。「株高持続、ドラッカーの教訓 日本企業、慢心せず変革を」と銘打ち、アメリカが1929年の大暴落から株価がその水準に戻るのに25年を費やし、1954年にようやくその水準を回復したというところから話はスタートします。
50年代初頭とはアメリカで経営学の神様、ピーター ドラッガー氏が頭角を現したころでアメリカにマネージメントという新しい発想を吹き込んだとあります。それ以降のアメリカの株価については皆さんご承知の通りですが、この苦節25年というところが日本の今の株価と被るところであります。
日本は失われた30年を経て34年ぶりに株価が1989年の高値を更新しました。ではその原動力は何だったのか、といえばさまざまな理由が思い浮かびますが、個人的には過去のしがらみが取れ、バブル崩壊のマイナス思考も薄れ、当時を知る人も減ってきて新しい時代を迎えることを日本が受け入れ始めたということではないかと思うのです。
90年代初頭に入社した元部下が私に何度も言ったのは「ボーナスって入社した年が一番多くてそれ以降、会社が倒産するまでずっと下がっていたので給与やボーナスが増えるという感覚がなかったです」と。2000年代を含めずっと下向きでデフレで土地の価格もよくもこれだけ下がるな、というぐらい下げ続けました。アメリカが経験した25年間の苦悩と日本の34年間はその意味では非常に似ているのでしょう。
くだんの日経の記事には50年代のマネージメントの時代から60年代のコングロマリットの時代につなぎ、新興企業を生み出し、ITプラットフォーマーを生み出すなど次々と革新的アイディアが生まれてきたことで今のアメリカの株価が形成されているという趣旨となっています。
なるほど、ということはアメリカの成功の道をトレースするなら日本がこれから目指すのは革新的アイディアであり、世界を唸らすディファクトスタンダードなのかもしれません。それは製品に限らず、思想でも手法でもよいでしょう。
そこで日経の記事をもう一つ。連載「あすへの話題」に哲学者の森岡正博氏が時折寄稿しています。森岡氏は生と死をテーマとする日本を代表する哲学者であると同時に我々に身近な話題、「草食系男子」とか「感じない男」「無痛文化」など興味深い視点を掘り下げており、個人的には上野千鶴子氏がデビュー作「セクシィギャルの大研究」で一世を風靡したのと同様、先々ポピュラーな方になる可能性を秘めた早稲田の先生であります。
その森岡氏が連載のコラムで「完璧主義の罠」と題した指摘は非常に興味深いものがあります。「いったん完璧主義の罠にはまると、我々は自分の人生に対してどんどん残酷に振る舞うようになる」とし「自分が生まれてきたことそれ自体に対しては、その苦しみも欠陥も大きく包み込んで肯定していくような道筋を探っていける」と結んでいます。
言わんとしているのは完璧主義の社会現状に対して人間はそんなにうまくできているわけではない、よってそれを強いられることによる苦しみを感じるよりできないことを自身も社会も許容できるような時代になってほしい、と私は理解しました。哲学者なのでその文章には深みがあり、読み手が読解する必要があります。これが哲学の面白いところであります。
日本がアメリカがたどったような飛躍の道を今後、進むとしたら何があるのでしょうか?私はモノづくりではなく、ノーベル賞をたくさん頂いた基礎研究でもなく、日本的経営でもないと思うのです。日本人が誰もしもわかっている平等感の中の幸福ではないかと思うのです。アメリカは成功者の裏側に無数のオピオイドで苦しむ成功を夢見る人々がおり、その下には貧富の差の壁をよじ登れない人々が社会を支えます。一方、日本の学生の就職率は97%だし、失業率は2.6%と世界でも類を見ない実態なのにそれが当たり前で誰も何も言わないのです。
人間、誰にも同じだけのチャンスが与えられる社会は世界にはあまりない、これを平等感の中の幸福と私は言いたいのです。なぜ、日本ができてほかの国ではできないのか、それは人々の欲望や我儘が感情の制御を超えてしまうからでしょう。日本は社会システムの中で弱者救済が着実に進化しています。森岡先生が指摘するように完璧な人間が完璧を目指すのではなく、人間それぞれが持つ能力をしっかり発揮し、補完の関係を社会の中に築いたという意味で私は日本は世界に類を見ない体系を作り上げたと自負しています。
そう、日経平均が34年ぶりに過去最高を更新したけれど我々が「そうだったのだ!」と気づけば日本の更なる飛躍は保証されたようなものであります。日本人が皆で育みたいものです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年4月8日の記事より転載させていただきました。