「光る君へ」4月14日放送の回に石山寺が出るというので、滋賀県の人はだいぶ楽しみにしていた。
従来、『源氏物語』が執筆されたきっかけは、このようなこと古くから理解されていた。
大斎院(選子内親王)より紫式部の仕えていた上東門院(彰子)に、「珍らしい本はないだろうか」という問い合わせがあったので、彰子は「『宇津保物語』『竹取物語』のようなものは目慣れているから、新しく作ってみては」と、紫式部に命じられた。
そこで、紫式部が石山寺に通夜(夜通し参籠すること)していたところ、折しも八月十五夜の月が湖水(琵琶湖)に映り、心の澄みわたるままに、物語の風情が空に浮んだのを、忘れぬさきにと、仏前にあった大般若の料紙を本尊に申しうけ、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて」と須磨の巻を書きつづり始めたと鎌倉時代にも言われてきた。
この話がどの程度に事実であるかどうかは、確認できないが、石山寺あたりで観る月の美しさは、京都市内からの比ではない。
しかも、石山寺の金堂は、のちの時代にかなり改造されているとはいえ、平安時代のものだし、多宝塔は紫式部の時代からそれほど遠くない鎌倉初期のものだから、その意味でも、タイムスリップするにはもってこいである。
ただし、最近は紫式部がまだ宮仕えに上がっていないころに、一部は書かれていただろうと考える人が多い。
そこでNHKは、紫式部が参籠していたら、『蜻蛉日記』の作者で藤原兼家の妾の一人だった藤原道綱の母と石山寺で語り合ったということにしていた。
本稿は私の新著『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)の一部を書き換えたものである。