アカデミズムという俗世間 - 『完全なる証明』

池田 信夫

★★★☆☆ (評者)池田信夫

完全なる証明完全なる証明
著者:マーシャ・ガッセン
販売元:文藝春秋
発売日:2009-11-12
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大学というのは、世間では学問に専念する純粋な人々の集まる世界と思われているかもしれないが、実際にはきわめて俗っぽい世界だ。日本の大学は、准教授になった段階で事実上のテニュア(終身雇用)がえられ、授業さえこなしていれば何もしなくてもいいので、ほとんどの研究者はその段階で研究をしなくなる。これに対して欧米諸国、特にアメリカの一流大学の研究者の競争は激烈だ。教授になってもテニュアは簡単に取れず、業績が上がらないと他の大学へ転出するよう圧力をかけられる。国際学会の権威ある査読つき論文以外は、業績とはみなされない。

ところが2002年に、arXivというコーネル大学のウェブサイトにディスカッション・ペーパーが投稿された。著者はグリーシャ・ペレルマンという、どこの大学にも所属していない無名のロシアの数学者だが、これが数学界の100年越しの難問「ポアンカレ予想」を証明したといわれ、大きな波紋を呼んだ。世界中の数学者が2年近く査読してチェックした結果、この証明が正しいことが確認され、ペレルマンは数学界で最高の名誉、フィールズ賞を授与されることが決まった。ところが彼は受賞を拒否し、多くの有名大学からのポストの提示も蹴って、姿を消してしまい、今も行方不明である。

本書は、ペレルマンの生い立ちやソ連の数学界の状況を含めて、アカデミズムがいかに政治的な世界であるかを描くルポルタージュである。肝腎のポアンカレ予想についてはほとんど説明されていないが、どうせ説明してもほとんどの人には理解できないだろう。興味あるのは、ソ連時代の数学者がスターリンや社会主義官僚によって粛清されたひどい状況だ。おかげでロシアの数学界は世界から大きく立ち後れ、いまだに立ち直れない。

ペレルマンがなぜ受賞を拒否したのかは謎だが、多くの関係者が指摘するのは、数学界のボス、丘成桐(ヤウ・シントゥン)の政治工作である。ハーバード大学教授であるヤウは、中国政府に国立の数学研究所をつくらせ、中国数学会の学会誌を創刊して編集長になり、そこに自分の弟子がペレルマンの証明を丸写しした論文を(査読も飛ばして)「ポアンカレ予想の最初の証明」と題して載せ、フィールズ賞を共同受賞させようと画策したのだ。ペレルマンのような天才にとっては、アカデミズムの俗悪さが耐えられなかったのだろう。

こういう激しい競争とどぎつい学問政治の横行する世界の学界に比べれば、ボスが仕切って猿山のような秩序ができている日本の学界のほうが、のんびりしていて楽だが、こういう環境からは学問的な成果は出ない。理科系はまだいいほうで、経済学では世界の上位1000人に6人しか入っていない。日本が、学問の世界でも中国に追い越されるのは時間の問題だろう。

コメント

  1. papaxun より:

    中国のアカデミスムは昔も今盗用や盗作の宝庫ですよ。エッーってレベルの人が大学とか研究所にいたりします。文革でまとまもなレベル研究者の製造に失敗していますから。彼等が今学会のボスだから、その実情たるやものすごいものがあります。なにかあっても政治力でどうでもなるし。あと猿山化も想像以上ですよ。今は共産党が知識人の不平を抑えるために、何でもかんでも研究助成金をだしていますから、学会とかではなく、もっと小さな研究所や大学のレベルでの猿山化に拍車をかけている面がある。盗作盗用に関して、言えば、近年はかなりの数の論文がウエブでよめるようになったので、少しはばれるようになりましたが、依然として盗用や盗作や論文名の変更や投稿者の順番を変えただけの投稿数稼は普通にみかけますよ。
    世界で戦える力のあるまともで力のある研究者なら、まず国外に行きますよ。政治的すぎるのが、中国アカデミズムの弱点でもあるし、強みでもあるのは間違えないんですが、上手くっている所と上手くいっていない所どっちが多いのと聞かれれば、かなり苦しい答えをするしかないですね。

  2. 海馬1/2 より:

     世界の上位 の ”世界” ってのから下りる選択をする人ってことです。

  3. 海馬1/2 より:

     日本のアカデミズムって、ついこないだまで”翻訳出版”だった気がしますけど?w
     蓮ホウ議員にバッサリ斬られる。

  4. oil_king より:

    グリーシャ・ペレルマン氏はソ連崩壊後、渡米し、米国の数学者・物理学者との交流後、ロシアに帰りポアンカレ予想を説いたんですよね。その後、「いまだに立ち直れない」ロシアや世話になった米国の学会との接触もない点から見ても、社会的欲求や自我の欲求すら捨てて、自己実現にのみ存在意義を感じている特異な人だと思います。
    現在は連絡のつきにくい状況のようですが、他の難題に一人で挑んでいる様ですよね。各国のアカデミズムに関係なく、難題を解く事そのものが彼の幸せなのでしょう。俗世と関係の無い、宇宙の形を証明するような学問を追求する学者の究極的な生き方ではないでしょうか?