新紙幣発行と「お金」の宗教性について

日本で3日、20年ぶりに新しい紙幣が発行された。海外に住んでいると、日本紙幣を手に入れる機会はほとんどない。ましてや3Dホログラムなどの最新の偽造防止技術を駆使して造られた新紙幣をウィーンでお目にかかることはここ暫くはないだろう。

新紙幣 国立印刷局HPより

日本のメディア報道によると、キャッシュレス時代に新たな紙幣を発行することに疑問を呈する声がある。1万円札の肖像を飾った渋沢栄一については様々なゴシップが流れ、紙幣の顔には相応しくないといった指摘もあるという。いずれにしても、今回の新紙幣が最後の紙のお金で、今後はデジタル通貨が市場を席捲し、紙の紙幣は消えていくという予測が聞かれる。

時代と共に「お金」に対する人間の概念、意識が大きく変わってきた。このコラム欄で9年前、ドイツ人哲学者クリストフ・トュルケ氏(Christopf Tuercke)の「お金」に対する宗教性について紹介した。「お金に潜む人間の贖罪意識」がデジタル通貨となった場合、どうなるだろうか。人間社会の発展に伴い「お金」に潜む贖罪感は霧消してしまうだろうか。

9年前のコラムだが、ここに再掲載する。このコラムが問いかけているテーマは今でも変わらない。新しい紙幣が発行された。「お金」のルーツについて改めて考えることも悪くないだろう。

「『お金』に潜む宗教性について」 2015年5月26日掲載

ギリシャのブチス内相が、「わが国にはもはや支払う金がない」と慨嘆した記事を読んだ時、ドイツの哲学者クリストフ・トュルケ氏が独週刊誌シュピーゲルのインタビュー記事(5月16日号)の中で語った内容を思い出した。同氏は「お金」の宗教的ルーツを説明していた。以下、同氏の発言内容を紹介しながら、「お金」について考えていきたい。

人類は「お金」を発見した、というか、考え出した。「お金」の最初はもちろん、今日流通している紙幣やコインではなかった。同氏は「なぜ、人々は金の話となれば冷静に話せなくなるのか。それはお金の誕生には宗教的起源があるからだ」と強調し、その宗教的ルーツについて語る。

いつからか分からないが、人類は「高き天上にいましたもう存在(神々)」に対して罪意識があった(キリスト教では原罪)。そして、全てを無にし破壊する天災を恐れてきた。天災を回避するために、神々に対し、罪を償わなければならないと感じてきた。だから、神々の怒りを鎮めるため最も大切なものを供え物として捧げた。最初は人間が供え物となった(例・旧約聖書「創世記」のアブラハムのイサク献祭)。それから贖罪用の動物(古代ギリシャ時代は「牛」)を供え物とした(独語の「お金」Geldはラテン語ではPecuniaだが、その語源は「牛」を意味するPecusだ)。その後、金、銀、銅といった貴金属がその贖罪手段として登場した(金は太陽を、銀は月を、銅は愛と美の女神ビーナスを映し出すと信じられていた)。そして現在、流通している紙幣とコインの「お金」が生まれてきたわけだ。それらに共通している点は、贖罪手段だったということだ。すなわち、私たちが今、利用している「お金」は本来、贖罪手段であり、「支払う」とは、贖罪のために供え物を捧げることを意味していたわけだ。

贖罪手段(支払手段)は時代が進むにつれて、より軽く、交換しやすく、人間に負担が少ない方法へと変わっていった。21世紀の今日、デジタル通貨も誕生した。それにつれて、「お金」のルーツ、贖罪という宗教性は希薄化していき、「お金」は単なる購買力を表す手段とみなされてきたわけだ。

実物経済より多くの「お金」が市場に流れ、投機に走る人間も出た。使い切れないほどの「大金」を抱える富豪者が生まれてきた。しかし、巨額の富を抱える資産家も資産減少という悪夢に脅かされる。「お金」が購買力を失えば、その瞬間、紙屑に過ぎなくなるからだ。その意味で、古代から現代まで「お金」には常に恐れが付きまとってきたことが分かる。

話を現代に戻す。トュルケ氏は、「巨額な工費で建設された欧州の欧州中央銀行は神殿であり、その銀行頭取は神父だ。彼は信者たちの罪の贖罪に耳を傾ける聖職者の役割を果たしている」というのだ。すなわち、銀行とは、「お金」の価値を集団で守る場所であり、預金者は銀行の「お金」の管理能力を信じなければならない。その信頼が崩れれば、銀行は存在できなくなる。世界で席巻している金融危機は顧客(信者たち)の銀行(神殿、教会)への信頼喪失がその根底にあるわけだ。

興味深い点は、ギリシャの財政危機に対する欧州のリベラルな経済学者たちの主張だ。「債務者が困窮生活を余儀なくされたとしても、その債務は返済されなければならない」と説教する。贖罪には苦悩が当然含まれる、という考えがあるからだ。だから、彼らは非情なぐらい節約政策を債務国に迫ることができるわけだ。ギリシャの財政赤字問題を見ていると、「お金」には宗教的側面があることが理解できる。

ところで、21世紀に生きる私たちは古代人のような罪意識や贖罪感も持ち合わせていない。使えきれないほどの資産を持つ大富豪が慈善活動に走る場合もあるが、多くは贖罪意識などない。だから人々の間に貯金通帳の厚さで格差が出てくる。「お金」に絡んで犯罪や紛争が絶えないのは、われわれが次第に「お金」の宗教的ルーツから遠ざかってきたからだろう。

「お金」は神々の怒りを鎮め、天災を回避するため罪の償いとして支払われてきた。われわれが罪意識を失い、贖罪意識を無くしたとしても、天災は昔のように襲ってくる。現代人が感じる漠然とした「不安」とは、天災を回避するために必要な贖罪を支払っていない、という後ろめたさに起因するのではないか。経済学的にいえば、われわれは債務未払い状況にある、という不安だ。

キリスト教会は、「お前たちは罪人だ。だから汗と涙を流して得たお金を供え物として捧げるように」と説教してきた。そして、教会の「献金」制度が出来た。ところが、献金制度の前提である信者たちの罪意識が乏しくなると、当然のことだが、献金は集まらなくなる。教会側は信者たちに、「お前たちは罪人だ」と繰り返し説教しなければならなくなる。現在のキリスト教会が財政危機に陥るのは、信者の減少、教会への信頼喪失の理由からだけではない。罪意識のない信者が増えてきたからだ。贖罪意識が伴わない「お金」が今、市場に溢れているのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年7月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。