パリでオリンピックが進行中だが、競技とは別場面での話題が豊富なようだ。その典型例が、開会式におけるイエス・キリストが処刑される前夜を描いたレオナルド・ダビンチの「最後の晩餐(ばんさん)」をモチーフにした場面だろう。女装して踊る「ドラッグクイーン」らが「最後の晩餐」の構図を再現したことが、「キリスト教をやゆしている」と受け止められ、多方面から批判された。
興味深いのは、担当者が「フランスのパロディー文化」に非常に意識的なことだ。開会式の演出の担当者は、
「多様性について語りたかった・・・。フランスには創造や芸術の自由がある。我々には多くの権利があるのだと伝えたかった」。
残念ながら、18世紀のフランス革命で斬首された王妃マリー・アントワネットと思われるキャラクターが自分の首を持って声高らかに歌うという演出とあわせ、評判がよくない。美しくないからだろう。「多様性」「自由」「権利」に関する説教だけで、感動をもたらすことはできない。
1980年代頃には、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズらがけん引したフランス現代思想は、世界最先端の評価が高く、欧州各国のみならず、日本やアメリカにすら、絶大な影響を与えた。
それは「ポスト・モダン」であり、「ポスト構造主義」の思想と性格づけられた。近代の思想が一つの完成段階に到達したことを前提にして、その体系性の「脱構築」を図るものだった。欧米中心の近代主義に疑義を呈したパリ5月革命を経験した「68年世代」が主な担い手であった。
このことは、現代国際政治を見る際にも、大きな意味を持っている。
1990年代以降の「ポスト冷戦時代」は、「自由民主主義主義の勝利」による「歴史の終わり」の物語を掲げる英米圏の保守主義的な思想が、勢いを持った時代であった。フランス現代思想の潮流は、現実の国際政治においては、何も影響を見ることがなかった。
ただし欧米各国の「リベラル」層の「ポリコレ」文化の中に、フランス現代思想の影響は色濃く浸透していくことになった。LGBTQの権利拡張を代表例にして、欧米家父長制度の近代主義を「脱構築」する思想が、「多様性」の「自由」に基づく「権利」の体裁をとって、欧米社会の価値規範の土台を形成するようになった。
このため「民主的平和」理論にもとづく民主主義の輸出を通じた紛争後国の国内社会を立て直す平和構築の試みでは、欧米の「リベラル」層が影響力を持った。
事情が複雑なのは、英米圏の保守主義者たちが、現実の国際政治において「文明の衝突」の対立を激化させる「対テロ戦争」を扇動していったことだ。フランス現代思想は、欧米中心の近代主義に疑義を呈するものだった。ところが「対テロ戦争」の文脈では、非欧米圏の文化に対する誹謗の意味合いも持つことになった。
「フランスのパロディー文化」は、イスラム主義者にとっては、認めることができないイスラムへの侮辱であり、むしろ欧米人の文化帝国主義の表れだ、として攻撃の対象になった。英米圏保守主義の底の浅さは、フランス現代思想の限界と微妙に折り重なって、21世紀の欧米諸国の威信低下をもたらした。
フランス国内でのテロ事件や、人種的対立、文化的寛容性の問題が深刻化しただけではない。中東からアフリカにかけてのイスラム圏で、フランス文化への評価は低落した。その象徴が、西アフリカの仏語圏諸国で相次いだ反フランスの民衆運動であり、フランス排斥を掲げて「サヘル同盟」を形成しているマリ、ニジェール、ブルキナファソだ。
フランス人にしてみれば、これらの諸国の独立以降、政治的配慮をしながら、資金と人命の巨大な投資をしてきた。しかしこれらの諸国の現在の政治指導者にしてみれば、それは一方的で(あるいは無意識的な)フランス帝国主義思想でしかない。彼らは今、フランスとアメリカを追い出して、ロシアを招き入れる政策を取っている。
ロシア政府は、すかさずパリ・オリンピックの状況を揶揄しながら、文化戦争を扇動する発言を繰り返している。
<パリ五輪>「出場禁止」のロシア、五輪に苦言連発…「おぞましくて吐き気がする」
プーチン大統領が、「リベラル」嫌いで、特に反LGBTQの思想を強く持っていることは、広く知られている。ロシア・ウクライナ戦争の背景に、そうした「価値をめぐる闘争」が厳然として存在し、正教会の分派争いもからみあって、宗教戦争の様相を呈していることも、周知の事実だ。
パリ・オリンピックの開会式におけるフランス現代思想の低落は、現実の国際政治における欧米諸国の低落と、不可分一体の関係にある。
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