フランスの哲学者・モンテーニュ(1533年-1592年)の言葉に、「真の自由とは、すべてのことを己の基準でなしうることである」とあるようですが、率直に申し上げて之は余りピンとこない見解に感じられます。
人間である以上当然ながら、縛られねばならないことがあります。先ず一つに、法律です。人間社会は秩序維持を図りながら共存して行くべく、我々は法の下不完全な自由に生きています。そしてもう一つは、責任感や使命感と言われるものです。之は人間として要求されており、罰則があるわけではありません。しかし、こうした道徳的規範というのも、ある面で人間を縛る要素にもなり得ましょう。従って己の基準自体が制約を受けているわけですから、「すべてのことを己の基準でなしうる」としても、そこに真の自由は無いと思います。我々は様々な基本的制約の中で、精神的・肉体的あるいは経済的に自由であるというだけです。
ここで嘗て当ブログで「ヒューマニズム」という観点から述べた、洋の東西の考え方の違いにつき私なりの見解を御紹介しておきます――西洋のヒューマニズムとは、中世ルネサンス時代が代表的なように、宗教的な統制や権威からの自由を求めたもので、個人の自由を中心に考える思想です。一方で東洋のヒューマニズムは全体の中での個人を尊重し、その中で人間性というものを追求して行きます。東洋文化には「無我無私」という「無」を原理とし、また「人間は常に孤に非ずして群である」(『荀子』)といった儒教的思想が根強くあるからです。つまり「ヒューマニズム」と一言で言っても、西洋は個人主義で東洋は全体主義と言えるかもしれません。(…北尾吉孝日記2015年4月22日)
人というものは他人や社会の干渉なしには存在し得ない、自分一人では生き得ない動物です。自由があれば片一方で規律もあるわけで、洋の東西を問わず完全な自由など有り得ないのです。だけど私は、それで良いのだろうと思います。そうでないと、人類社会が成り立たないからです。
古代中国の有名な兵法書『六韜(りくとう)』に、「天下は一人(いちにん)の天下にあらず乃(すなわ)ち天下の天下なり」(文師)という言葉があります。安岡正篤先生が言われる通り、「人と境とは相俟って自由自在に変化してゆく。(中略)人は境を作るからして、そこに人間の人間たるゆえんがある、自由というものがある。即ち主体性・創造性というものがある」わけです。自由とは結局、きちっと主体性を維持する中で出てきます。また自由だからこそ、創造性が発揮できます。そして自由だからこそ、競争が起こり社会が進歩するのです。
「民主制国家の基礎は自由である」とアリストテレス(前384年-前322年)が言い、ルソー(1712年-1778年)は「人民の自由は、国家の健全に比例する」と言います。自由というのは一国だけでなく、我が身心においても責任を伴います。自分で主体性を持ち、世のため人のため生きて行くという責任が伴うものなのです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年9月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。