韓国の戒厳令未遂事件の関連で、コロナ騒動のとき西浦博氏の「クーデター」が話題になっている。彼の「何もしなかったら42万人死ぬ」というシミュレーションは、緊急事態宣言という有害無益な「戒厳令」をもたらした。
思考実験で「42万人死ぬ」と予測したクーデター
西浦氏のモデルは単純だった。武漢とドイツで一時的に計測された基本再生産数Ro=2.5という仮定が世界中で一定だと想定し、世界中で新型コロナに免疫をもつ人がゼロだとするとどうなるか、という思考実験だった。その元になるデータのフィッティングもしていない。
これはイギリスのファーガソンらのモデルの数値を置き換えただけだった。このモデルではRo=2.4と仮定し、8月までにイギリスでは51万人、アメリカでは220万人が死亡すると予測した。
2020年3月に西浦氏が専門家会議で発表した推定はこのパラメータを置き換え、「オーバーシュート」という造語で、Ro=2.5で60日で人口の約80%が感染すると推定した。その0.4%が死亡すると42万人だが、厚労省がその死者数の発表を止めたので、4月15日に記者会見を開いたのだ。
専門家会議はそれを制止できず、厚労省も役所でクラスター班の見解として記者会見させた。ここで西浦氏は「感染拡大の防止策を実施しなかった場合、重症患者が累計85万3000人になり、その49%が死亡する」と発表した。
死者数はいわなかったが掛け算すればわかるので、私がJBpressで「新型コロナで42万人死ぬという西浦モデルは本当か」と書いたら大反響を呼んだ。これは西浦氏も認めたように、政府の決定システムを踏み超えたクーデターだった。
暴走する現場を止められない官僚組織
西浦氏の予測は大幅にはずれ、60日後の死者数は800人。最大の被害を受けたのは営業停止になった飲食店だった。「8割削減」で死者が1/500になったとすれば驚くべき成果だが、実際にはほとんどの人は緊急事態なんか無視して行動した。
これをみて戦前の軍部を連想した人は少なくない。満州事変を起こしたのは政府でも参謀本部でもなく、関東軍の参謀(課長級)にすぎない石原莞爾だった。軍部はいつの時代にも、戦争を求める。地震学者は地震対策に無限のコストを求め、気象学者は気候変動に無限の対策を求める。感染症学者が感染症対策に無限のコストを求めるのは当然である。
政治はそういう個別利害を超え、全体最適を考えて判断しなければならないが、戦前の日本では軍部に知的エリートが集まり、その権威に政治家が勝てなくなった。軍部が「統帥権の独立」という論理で独立性を主張し、政府が決定して専門家が実行する階層構造が崩れてしまった。
その結果、指揮系統が混乱して両論併記で先送りが続く。それで何もしなければまだいいのだが、最後は状況に迫られ、ドタバタの中で誰も望まない結論が出てしまう。日米開戦は東條首相さえ望まなかった。その間違え方には法則がある。全員一致と前例主義である。
危機管理する国家の不在
どこの国でも官僚機構は前例主義だが、前例を超える大きな意思決定は主権者が行なう。しかし明治憲法では主権者たる天皇が「空虚な中心」だったため、指揮系統がわからなくなった。こういうとき専門家の力の源泉になるのは人間関係である。
明治時代、長州閥の武士は戦争の攻撃や撤退の呼吸を知っていたが、明治以降、士官学校を卒業した学校秀才は実戦経験がないため、石原や武藤章や辻政信など、勇ましい作戦を主張する軍人が出世する組織になってしまった。
大局的な判断は総司令部がおこない、将官も兵士もその指揮に従うのが戦争の鉄則だが、日本軍では中隊レベルでボトムアップの意思決定がおこなわれ、師団もそれを追認するだけだった。官僚機構でも「局あって省なし」といわれるように部分最適化がおこなわれ、国家としての意思決定ができない。
コロナでも、政府がこのようなタコツボ集団だということが露呈した。厚労省の下部組織の感染症対策分科会の尾身茂会長が大臣を超える発言権をもって行動制限を決定し、100兆円を超えるコロナ対策費がほとんど国会を通さずに支出され、いまだにその総額もはっきりしない。
このように危機管理ができない欠陥の背景には、指揮系統の不明な国家の不在がある。感染症は今後もやってくる。韓国の戒厳令や台湾有事など、日本も国家的危機に直面する確率は小さくない。そういうときこのように「空気」で決めていては、戦わずして敗北するだろう。