戦後の「裏の国体」を代弁した渡辺恒雄氏(アーカイブ記事)

読売新聞の主筆、渡辺恒雄が98歳で死去した。これは来年の政局に大きな影響をもたらすだろう(2018年10月の池田信夫blogの記事の再掲)。

渡邉恒雄 メディアと権力 (講談社文庫)

2019年10月に消費税が10%に引き上げられるとき、軽減税率が導入された。圧倒的多数の専門家がこれに反対したが、マスコミはまったく取り上げない。新聞が軽減税率の対象になっているからだ。これをリードしたのは読売新聞であり、その社論を決めるのは「主筆」である。

こういう点で、渡辺の影響力は大きい。朝日新聞が戦後日本の「表の国体」を代表したとすれば、読売は自民党を中心とする「裏の国体」の代弁者だった。朝日の左翼的な美辞麗句は、論壇では多数派だったが、政治的には多数派になれなかった。それは既得権を守って現状を維持する、自民党的な日本人の本音をとらえることができなかったからだ。

渡辺を通じて本書の描く読売の戦後史は、およそジャーナリズムとは縁遠い、政治部と社会部の派閥抗争の歴史だ。渡辺は「番記者」として得た自民党の権力を利用して社内で出世し、社内で得た地位を利用して自民党を動かした。確かに優秀な記者だったことは誰しも認めるが、そういう記者が権力ゲームを演じるのは、特異な才能である。彼もたびたび危機に直面したが、きわどく生き延びた。

「社会部帝国主義」との戦い

渡辺は入社したときは、社会部を志望したという。当時の読売新聞は三流企業で、共産党員だった彼は一流企業には入れなかった。まだ「革命」の幻想をもつ彼は反権力的な社会部を志望したが、派閥記者として出世するうちに自民党と一体化した。

読売の主流は、編集ではなく販売だった。正力は部数が権力に結びつくことを知っていたので、全国に販売網をめぐらし、日本テレビと一体で読売グループを経営した。渡辺はその後継者として「販売の神様」といわれた務台光雄と、正力の娘婿だった小林與三次の権力のバランスの中で出世してゆく。

渡辺は大野伴睦の番記者になり、1950年代以降の自民党の人事にもかかわるようになった。彼は「書ける記者」だったので、自民党議員の政策を代筆することも多かった。社内では務台派と小林派の抗争の中で左遷されたり辞表を出したりするが、巧みに生き残り、実権を握ったあとは「社会部帝国主義」だった編集局に介入した。

どこの新聞でも(NHKでも)スターは社会部である。政治部のニュースは政局ものが多く、政策もほとんどの読者にはわからない。それに比べて事件・事故は誰でもわかり、話題になりやすい。だから社会部が政治家のスキャンダルを追及するのを「おさえる」ことで政権に恩を売るのが、政治部の大事な仕事だった。

当時、渡辺と並び称せられたのは、朝日新聞の三浦甲子二とNHKの島桂次だった。三浦は田中角栄に食い込んでテレビ朝日をつくったが、田中の失脚で政治的な後ろ盾を失い、モスクワ・オリンピック独占中継の失敗で失脚した。島は宏池会を取り仕切る大物派閥記者だったが、海老沢勝二と対立してスキャンダルを暴露されて失脚した。

読売がはっきり自民党寄りのスタンスを取るようになったのは、渡辺が論説委員長になった1980年代以降である。これは社内で異論も多かったが、渡辺は中曽根首相など政権中枢との関係を利用し、ライバルを蹴落とした。それが可能だったのも、渡辺が自民党内の派閥力学を読み、それに迎合する路線を取ったためだろう。

とはいえ渡辺が自民党に提案した政策はそれほどおかしなものではなく、憲法改正、小選挙区制、間接税の創設、行政改革など常識的なものだった。それを実現する手段として派閥力学を利用するのが彼のマキャベリズムだったのかもしれない。