大河ドラマ「光る君へ」の最終回が放送されたが、その一世紀後の後日談である。道長の子孫の男たちの中で、道長のように気が強く覇気があり、策略を巡らすのが得意な豪腕政治家で、詩歌管絃なども好む文化人で、しかも人間として情愛にあふれた人物といえば、玄孫にあたる白河上皇であろう。
「天下の三不如意」として鴨川の水、双六の賽、山法師(比叡山僧兵)を挙げた、「院政」の創始者である。
その曾孫が、源頼朝から「日本一の大天狗」といわれた後白河法皇だ。彼らに絡む美女たちもまた、ほとんどが道長の子孫たちである。
白河天皇は藤原賢子を深く愛し、重病となっても御所からの退出を許さず、遺骸を抱いて号泣した。天皇が穢れにふれてはならないと注意されても「例はこれよりこそ始まらめ」と聞かなかった。
賢子は藤原道長の孫でもある村上源氏の源顕房(師房と道長の娘尊子の子)の娘で、頼通の子である藤原師実の養女である。
二人の子どもである堀河天皇は叔母で後三条天皇(道長の長女と次女との孫)の皇女である、十九歳も年上の篤子内親王(陽明門院が養育)を「子供の時からすばらしい女性だと憧れ、この人を妻としたいと思っていた」として中宮にした。
後白河院は、美貌と気配りに優れ、ロココ時代のポンパドゥール夫人を想起させる建春門院(平滋子)を愛した。彼女は平清盛夫人である平時子の妹であり、紫式部の夫である宣孝の子孫である。
建春門院が生んだ高倉天皇、その后の一人である七条院(道長の甥で「刀伊の入寇」で活躍した隆家の子孫であり、道長の次男・頼宗の子孫)が生んだ後鳥羽天皇、その后の一人である承明門院(源在子。紫式部やその娘である賢子の子孫)の子である土御門天皇の系統が現皇室につながる。
ここでは白河上皇ゆかりの岡崎を、『紫式部と武将たちの京都』(知恵の森文庫)から案内する。
白河上皇は平安神宮周辺に法勝寺を建て、堀河天皇が尊勝寺、鳥羽天皇が最勝寺、鳥羽天皇中宮持賢門院璋子が円勝寺、崇徳天皇が成勝寺、近衛天皇が延勝寺という「勝」という字がつく六つの寺を建て、これらは六勝寺と総称された。これらは法皇たちが住み政治を行う御所でもあった。
特に1128年建設の法勝寺の八角九重塔は、81メートルあったとされ、再建してほしい建築物の筆頭に挙げられる。市立動物園の中に土壇があったが、駐留米軍によって破壊され、花崗岩の礎石は池の石橋に転用されてしまったのは残念だ。
明治になってできた琵琶湖疏水は、最初は舟の便も重宝されていたが、蹴上げの下船場で78メートル、動物園の横では42メートルの落差を利用して水力発電が行われ、市電が走った。南禅寺から北白川にかけては琵琶湖疏水の支線が山沿いを北上している。水車を並べて工業地帯にしようとしたが、電力の時代になって水車小屋は不要となり、庭園に水を引き入れて利用することに切り替えられた。
山縣有朋が南禅寺に無鄰菴という別荘をつくったとき、英国風の自然豊かな庭を日本風に再現したいと考え、東山を借景にして水が流れる庭を造るよう指示したのが小川治兵衛である。山縣の信頼を得た小川は平安神宮外苑の庭も設計し、さらに野村別邸や対龍山荘といった名作を残した。
■
岡崎は素晴らしいグルメの宝庫である。無隣庵の隣の三つ星・瓢亭をはじめ高級店も多いが、ここでは観光客が気軽に寄れる日本料理以外のいくつかを紹介する。
平安神宮の西隣の道路に面したLA VOITUREのタルトタタンは日本で食べられる最高のフランス菓子の一つ。
平安神宮より西の疏水に面したセクションドールのタンドリチキンもいい。
旧京都会館の蔦屋書店の二階にある京都モダンテラスは、景色も建築も素晴らしい。
その南西の疏水に面したホーフベッカライエーデッガー・タックスは、ハプスブルク家御用達のウィーン風のパンと菓子。
グリル小宝(コダカラ)のオムライスは昔から人気。
ダユウキのピザも安定のおいしさだ。