司馬遼太郎の短編小説『江戸遷都秘話』には、「京都の大久保利通の自宅に江戸寒士とのみ記された投書があり、これにひどく大久保が感銘して江戸遷都に踏み切ることにした」と記されており、それがあたかも史実であるかのように流布している。
しかし、司馬自身は「これが事実とすれば、ひどくロマンティックだ」と結んでおり、まったくのフィクションである。実際には、この建白書と江戸への遷都が議論された時期にはかなりの隔たりがある。
『古地図と古写真で楽しむ大阪歴史さんぽ』(TJMOOK)でもこの話を取り上げているが、司馬は自身の小説におけるフィクションを講演などで史実のように語る悪癖があり、この遷都小咄もそのようにして広まったものである。感心すべきことではない。
「王政復古」とは、幕府および摂関制の両者を解体し、天皇の下で近代国家を建設しようとするものであった。このため、首都に関してもさまざまな提案がなされた。その翌月(慶応4年1月)には、大久保利通が「大坂遷都建白書」を提出している。
「上下の区別なく国民が地からを合わせて新しい国をつくっていくためには、天皇が簾の奥におられて少数の殿上人としか会わぬというのでは困る。仁徳天皇のころは皇室と国民の間がもっと近かったはず。この際、国民の父母としての皇室を確立するためには遷都が必要。場所は外国との交際、富国強兵の観点からも浪速しかない」というわけだ。
大阪が仁徳天皇の故都であるという点も、浪速遷都論の正当性を裏付ける要素であった。また、仮に江戸幕府が存続していた場合でも、幕府の大坂移転が行われていた可能性はあり、普通に考えれば最有力の選択肢であった。
しかし、公家の中には、西国を地盤とした平清盛が福原に遷都し、安徳天皇を屋島や太宰府に連れ去ったことの再現ではないかと警戒する者もいた。
そこで、「とりあえず関東平定のための『車駕親征』ということで一時的に大坂に移り、様子を見よう」ということになった。京都から江戸へ向かう際にも、大坂から蒸気船に乗るのが一般的であったため、東征のために大坂に向かうのは理にかなっていた。このとき、大坂での滞在は約40日に及んだが、江戸が開城したため、天皇は再び京都に戻った。
その後、東西二都論なども浮上したが、戊辰戦争の勃発により東国情勢が緊迫し、東日本をしっかりと押さえ、将来にわたり徳川家に江戸城を返す意思がないことを示す必要があった。このため、天皇の東幸が決定され、7月17日に「車駕東遷」が発表された。「江戸は東国第一の要地であるので、これを東京と改称し、自らそこへ赴き政務を見ることにする。これは、自分が国内を一家とし、東日本、西日本を平等に見ようとするからである」とされた。
9月20日、天皇は2300の兵に警護され、御所の建礼門より出発し、10月13日に江戸城に入城、東京城と改称した。しかし、戊辰戦争も官軍の勝利に終わっていたため、天皇は京都に帰ろうとしたが、三条実美が「天皇が京都へ帰ってしまえば関東の人心を失う。京都、大坂の人々が新政府を恨んだとしても、数千年にわたり皇室の恵みを受けてきた土地だから心配ないが、関東は古来より皇室の恵みを受けることが少ないから、京都へ帰ってしまえばたいへんなことになる」と主張した。
とはいえ、孝明天皇の三年祭や立后の儀式などの予定もあったため、12月にはいったん京都に戻ることとなった。京都では激しい議論が交わされたが、三条が再幸を中止すれば東国の騒乱が勃発すると強引に議論をまとめ、3月7日、天皇は再び京都を出発し、3月28日に東京入城、太政官もここに移された。

明治天皇の東京行幸(聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」)
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江戸城の本来の将軍の住まいだった本丸御殿は1863年に焼失しており、将軍・家茂は西の丸御殿で生活していた(慶喜は将軍として江戸城にいたことはない)ため、明治天皇もこの西の丸を住まいとすることとなった。
しかし、1873年にこの建物も焼失したため、赤坂離宮(旧紀伊藩邸)を臨時の皇居とし、1879年に西の丸に「明治宮殿」といわれる皇居が建設された。外観は紫宸殿風であったが、内部は洋式の構造であった。
この建物は戦災で焼失し、その後は、防空施設も兼ねた御文庫がお住まいになり、宮内庁の中に仮宮殿が設けられた。そして1961年には、住居として吹上地区に吹上御所が完成し、1968年には、明治宮殿の跡地に新宮殿が完成した。昭和天皇の崩御後は、香淳皇后の住まいとして吹上大宮御所と改称され、今上天皇は赤坂御所(現東宮御所)におられたが、1993年に吹上地区に新たな御所が完成した。







