「自分史上最高」という表現が映し出す言語と価値観の変容

「今日の晩ご飯、自分史上最高においしい!」
「私史上最高の旅行だった」

SNSを開けば、こうした表現があふれています。かつて「史上最高」という言葉は偉大な歴史的出来事や記録に用いられてきましたが、いつからか「自分」や「私」という個人を示す言葉と組み合わせた用法が日常会話に浸透しています。

この言葉の変容は、私たちのコミュニケーションや世代間の認識の差にどのような影響を与えているのでしょうか。

言語学的に見ると、この表現は従来の「史上最高」から派生したものです。『広辞苑』によれば、「史上」とは「歴史上。また、記録に残っている限りにおいて」と定義されています。本来、人類の長い歴史や公的な記録を指す言葉が、個人の経験という私的な領域に限定される「自分史上」という造語的用法へと拡張されたのです。

この変化の背景には、SNSの普及による自己表現の多様化があります。国立国語研究所の調査「現代日本語における新語・流行語の定着過程」(2021年)によれば、「自分史上最高」という表現のSNS上での使用頻度は2015年から2020年の間に約8倍に増加しています。特に10代後半から20代の若年層での使用が顕著です。

先日、50代の上司に「これは部門史上最高の企画書です」と熱意を込めて説明した新入社員が、思わぬ反応に戸惑ったというエピソードを耳にしました。上司には大げさな表現に聞こえたようですが、本人は最大級の称賛のつもりだったそうです。こうした世代間のコミュニケーションギャップが生じる背景には何があるのでしょうか。

言語学者の井上史雄氏は著書『日本語ウォッチング』(2020年)で「新語や流行語に対して違和感を持つのは、言語変化の過渡期において自然な反応であり、特に40代以上の世代ではこの傾向が強い」と指摘しています。

「史上」という言葉が持つ荘厳さや重みと、個人的な体験を組み合わせることへの違和感も無視できません。「史上最高」は本来、これまでの人類の歴史における最高到達点を指す言葉です。それを「今日の晩ご飯」のような日常的かつ一時的な体験に用いることで、言葉の価値が軽くなったように感じる人もいます。

さらに、日本文化における謙遜の美徳との衝突も考えられます。文化人類学者の中根千枝氏が『タテ社会の人間関係』(1967年)で提唱したように、日本は伝統的に「タテ社会」であり、自己主張より集団との調和が重視されてきました。そのため、自分の経験を大げさに表現することに抵抗感がある世代も少なくありません。

一方で、コミュニケーション研究者の松田謙次郎氏は『言語変化のダイナミズム』(2018年)で「言語は常に変化するものであり、使用者のニーズに応じて新しい表現が生まれるのは自然なプロセスだ」と述べています。若い世代を中心に、この表現は単なる流行ではなく、自分の感情を率直に表現したいという現代人のコミュニケーションニーズに応えているのです。

私自身も最初はこの表現に違和感を覚えましたが、若い友人たちと交流するうちに、彼らが感情を素直に表現する手段として用いていることを理解するようになりました。

大切なのは、相手や状況に応じて適切な表現を選ぶことです。公式な場では従来の表現を用い、友人とのカジュアルな会話やSNSでは新しい表現を楽しむという使い分けができれば、コミュニケーションがより豊かになります。

言語は生き物のように変化し続けるものです。「自分史上最高」という表現も、現代の日本語が進化する過程で生まれた一つの形といえるでしょう。

違和感を覚えつつも、時代とともに変わりゆく日本語の多様性として受け入れる余裕があれば、世代を超えたコミュニケーションの可能性が広がるのではないでしょうか。

あなたはこの表現をどのように受け止め、使いこなしていますか?

尾藤 克之(コラムニスト・著述家)

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