参政党の研究【2025参院選後の改訂版】

島田 裕巳

参政党HPより

序章:新しい「神話」の始まり

長年、私が日本の「宗教と政治」を研究する中で、その中心は常に創価学会と公明党であった。戦後日本が生んだこの巨大な宗教的政治団体は、強固な組織と信仰を基盤に、政治風景を規定する存在であり続けた。しかし、時代は変わった。21世紀に入り、社会の価値観が多様化する中で、創価学会のような「新宗教」はかつての勢いを失いつつある。

だが、日本人が精神的な支えへの希求を失ったわけではない。むしろ、組織や教義に縛られることを嫌う現代人は、旧来の「宗教」に代わり、より個人的で生活に密着した「スピリチュアルなもの」へと関心を移行させている。健康、食、環境、歴史の中に自らの生きる意味を見出そうとする、新しい精神性の潮流である。

この、組織宗教の衰退と個人的スピリチュアリティの隆盛という地殻変動の狭間で、一つの問いがあった。「拡散した個人のスピリチュアルなエネルギーを受け止め、再び政治的な力へと結集させる、新しい『受け皿』は現れるのか」。その問いへの鮮烈な答えが、「参政党」である。

2022年の参院選での彼らの登場は、かつての公明党とは異なる質の熱気を帯びていた。街頭演説会には、子連れの母親や健康意識の高い若者が詰めかけ、候補者の言葉に熱心にメモを取る姿は、まるでセミナーのようであった。

この現象を「ネット右派」「陰謀論」といったレッテルで片付けることは、176万票(2022年参院選比例代表)の獲得、そして2025年7月の参院選での大躍進という民意の重みを無視するに等しい。その陰で、公明党は歴史的な大敗を喫している。

本稿が提示する視座は明確だ。参政党とは、単なる政治団体ではない。それは、「反グローバリズム」という世界的思潮と、「スピリチュアルな自己探求」という現代の精神性が、「日本の国体と伝統」という物語を触媒として結びついた、新しい形の「スピリチュアルな国民運動」なのである。

第1章:誕生の必然性──世界の潮流と日本の土壌

いかなる政治運動も、真空からは生まれない。参政党の登場は、世界を覆った急性の「熱病」と、日本を蝕む慢性の「持病」が重なった、必然の産物であった。

第一節:世界を覆う「熱病」──反グローバリズムという名の亡霊

参政党を理解するには、まず彼らが日本固有の現象ではなく、世界的な潮流の日本版であるという視点を持つ必要がある。2016年のドナルド・トランプ米大統領の誕生や英国のEU離脱(ブレグジット)、そして欧州大陸で台頭する右派ポピュリスト政党は、共通の戦術と物語を採用している。

それは、国内の経済的停滞や文化的な摩擦の原因を、国境を越えて活動する「グローバル・エリート」「国際金融資本」、そして彼らの思想を広める「大手メディア」という「外なる敵」と、それに内通する「腐敗した国内の支配層」という「内なる敵」に求めるという手法だ。

この物語は、複雑な社会問題を「善良で勤勉な国民 vs 貪欲で邪悪なエリート」という単純な善悪二元論に落とし込み、人々の不満や不安に明確な「敵」を与えることで、強力な政治的エネルギーを生み出す。参政党が「グローバリスト」「ディープステート」「メディアが隠す真実」といった言葉を多用するとき、彼らはこの世界に蔓延するポピュリストの脚本を、極めて忠実に演じているのである。

第二節:日本の「持病」──30年の停滞と「身体」の不安

世界が熱病に浮かされる一方、日本は「失われた30年」という「終わりの見えない停滞」に蝕まれてきた。経済は低迷し、政治がこの絶望に応えられない中、水面下で新しい種類の「不安」がマグマのように蓄積していた。

  • 「食」への不安:低い食料自給率、農薬、添加物への疑念。
  • 「健康」への不安:西洋医学や製薬会社への不信感、コロナ・ワクチンへの懐疑心。
  • 「教育」への不安:日本の歴史や文化への誇りを失わせる教育への抵抗感。

これらは、従来の政治争点とは異なり、「私たちの身体と心が、得体の知れない力に乗っ取られるのではないか」という、生活実感に根差した恐怖だった。

第三節:受け皿の不在──魂と身体の置き去り

この「魂(伝統)」と「身体(健康)」の両方の不安に応える政党は、どこにも存在しなかった。自民党はグローバル経済に配慮するあまり「魂」を、旧来の野党はイデオロギーを優先するあまり「身体」を、それぞれ置き去りにした。

この巨大な政治的空白こそが、参政党ブームを必然たらしめた最大の要因である。

第2章:参政党の戦略書──「身体」から入る政治

参政党の戦略で最も独創的なのが、抽象的な政治イデオロギーを、具体的な「身体感覚の危機」へと翻訳する手腕である。

第一節:「身体の政治学」──アトピーとOTC薬問題が拓く扉

その典型的な入り口が、アトピー性皮膚炎に代表されるような、現代的な健康問題だ。プロセスはこうだ。我が子のアトピーに悩む母親が、標準的な西洋医学の治療に限界や疑問を感じ、代替医療や食事療法に活路を見出す。この過程で、彼女は必然的に、医学界、製薬業界、食品業界、そして政府やメディアといった既存の「権威」に疑いの目を向けることになる。

この不信の炎に油を注ぐのが、【自民・公明・維新の3党合意によるOTC類似薬の保険適用除外】といった具体的な政策である。この合意は、医療費削減を名目に、アトピー患者が日常的に使用する保湿剤(ヒルドイド類似薬)や花粉症の薬(タリオンなど)を保険適用から外し、全額自己負担とするものだ。患者にとっては、負担が数倍から数十倍に「激増」する、まさに生活を直撃する改悪である。

この政策が重要なのは、それが「既存の主要政党(自民、公明、維新)が、結局は国民の健康や生活よりも、国家の財政や既得権益を優先するのだ」という、参政党のかねてからの主張を、これ以上ないほど雄弁に裏付けてしまうからだ。アトピーに悩む当事者から見れば、この政策は、自分たちの苦しみを無視した、冷酷な決定としか映らない。

こうして、個人的な健康問題への不安は、具体的な政策への怒りを経て、既存の社会システム全体への根源的な不信へと発展する。この段階に至った人々にとって、参政党が語る「グローバリストによる支配」や「メディアが隠す真実」という物語は、自らの体験と完全に符合する、説得力のある「答え」として響くのだ。「身体」への不安は、かくして世界認識を転換させる強力なゲートウェイとなる。

第二節:「国を奪われた」という神話

優れた戦略も、心を捉える「物語(ナラティブ)」がなければ機能しない。参政党の強さは、現代人の不安に寄り添う、シンプルで力強い思想にある。

彼らが提示する世界観は、「かつて素晴らしかった日本が、戦後、特にグローバル化によって外国勢力や国内の支配層に奪われてしまった」という「神話」から始まる。

この「奪われた日本を取り戻す」という壮大な物語は、支持者に分かりやすい現状の「診断」、憎むべき「敵」、そして自らを国を取り戻す「物語の主人公」へと昇格させる心理的効果をもたらす。

第三節:「日本を取り戻す」ための三本の矢

では、具体的に何を取り戻すのか。その思想は三つの「主権回復」に集約される。

  1. 食と健康の主権:食の安全や医療の選択は、グローバル基準ではなく国家が責任を持つべきだ、という「健康主権」の考え方。
  2. 教育と文化の主権:自虐史観やジェンダーフリー教育を「外国からの価値観の押し付け」と断じ、日本の伝統と誇りを取り戻そうとする「文化戦争」。
  3. 安全保障と外交の主権:最大の脅威を中国共産党と名指し、自主防衛と対中強硬姿勢を訴える。
第四節:橘玲ワールドへのアンチテーゼ

参政党の物語は、なぜこれほど魅力的なのか。それは、作家・橘玲氏が描く「知能と金融資産を武器に、自己責任で生き抜け」という冷徹なグローバル資本主義の現実に対する、全身全霊のアンチテーゼだからだ。

  • 橘玲:「世界標準の競争を生き抜け」
  • 参政党:「グローバル化から身を守る防波堤を築こう」
  • 橘玲:「頼れるのは自分だけだ」
  • 参政党:「『日本人』という仲間がいる」

冷徹な自己責任社会に疲弊した人々に対し、「大丈夫、ここにはまだ温かくて誇り高い共同体がある」という甘美なメッセージを届ける。彼らのナショナリズムとは、グローバル資本主義に怯える人々がたどり着いた「精神的な安全保障」なのである。

第3章:日本のポピュリズム──コインの裏表としての「れいわ新選組」

参政党という現象を立体的に理解するには、「れいわ新選組」との比較が不可欠だ。

一見、左右の極に位置する両党だが、その骨格を分析すると、同じ「反エスタブリッシュメント・ポピュリズム」というコインの裏表であることが分かる。

第一節:驚くべき戦術と経済政策のシンクロ

両党の戦術は酷似している。カリスマ的リーダーへの依存、明確な「敵」の設定、SNSと街頭演説の両輪、そして熱狂的なボランティア組織。経済政策においても、共にMMT(現代貨幣理論)に近い積極財政を掲げ、奇妙なほど響き合っている。

第二節:なぜ右と左に分岐したのか──「喪失の物語」と「党名の矛盾」

同じ水源から出発しながら、なぜ二つの流れに分岐したのか。第一の理由は「何を奪われたのか」という「喪失の物語」の違いである。

  • れいわ新選組の物語:「経済的な豊かさと尊厳」を奪われた物語。救済は国家による「再分配」であり、必然的に左派へ向かう。
  • 参政党の物語:「精神的な誇りと共同体」を奪われた物語。救済は「伝統復興」と「外部からの防衛」であり、必然的に右派へ向かう。

そして、この分岐を決定的にしたのが、第二の要因、すなわちれいわ新選組の党名そのものに横たわる、歴史的な「矛盾」である。

「れいわ」という元号を冠するその党名は、一見、保守的で、伝統を重んじる姿勢を示唆する。山本代表が、園遊会で天皇に手紙を渡した行為は、かつての直訴を思わせる。しかし、それに続く「新選組」という言葉は、歴史や伝統を重んじる層、特に「皇統の維持」や「国体」といった概念に強いこだわりを持つ層にとって、深刻な違和感をもたらす。

「新選組」は、幕末の京都で、徳川幕府のために、反幕府勢力、すなわち「尊王攘夷」を掲げる志士たちを、容赦なく斬り捨てた武装警察組織である。彼らの忠誠はあくまで「徳川将軍家」に向けられていた。そして、戊辰戦争の最終局面において、彼らは天皇の軍を示す「錦の御旗」を掲げた新政府軍と戦い、「朝敵(ちょうてき)」、つまり天皇の敵と見なされた存在である。

ここに、深刻なねじれが生じる。山本太郎代表が率いる「れいわ新選組」は、現代の「エスタブリッシュメント」である自民党政権を徳川幕府になぞらえ、自らをそれに立ち向かう「幕末の志士」のように位置づけている。支持者の多くも、その比喩を抵抗なく受け入れているだろう。

しかし、保守的な視点を持つ人々から見れば、これは単なる比喩では済まされない。「天皇の敵であった組織の名前を、なぜ堂々と党名に掲げるのか」という、根本的な違和感と不信感に繋がるのだ。

彼らにとって、この党名は、歴史に対する無理解、あるいは意図的な無視と映る。「反エスタブリッシュメント」という姿勢には共感できても、「朝敵」の名を冠する党を支持することは、自らの信条に反する。

ここに、参政党が持つ「受け皿」としての強みが現れる。参政党は、その思想の核に「皇統の維持」「日本の国柄」「神話からの歴史教育」といった、徹底した「尊王」的な価値観を据えている。つまり、「既存政治にはうんざりだが、日本の伝統や皇室は深く敬愛している」という層にとって、れいわ新選組の党名が持つ「歴史的瑕疵」は、彼らを支持できない決定的な理由となる。

そして、その層が「反エスタブリッシュメント」の思いを託せる、もう一つの選択肢を探した時、思想的に「クリーン」で、むしろ自分たちの価値観を純粋培養したかのような参政党が、完璧な受け皿として、そこに存在しているのである。

第4章:支持層の歴史的文脈──創価学会との比較

参政党の支持層を理解するために、歴史的なアナロジーが有効である。それは、これまで私が論じてきた、高度経済成長期における創価学会の拡大モデルだ。

第一節:創価学会が吸収した「都市下層」

高度経済成長期、地方から都市へ大量の人口が流入した。彼らの多くは、生まれ育った共同体から切り離され、都市の企業や地域社会にも帰属意識を持てない「都市下層」とも呼べる存在だった。彼らは「貧・病・争」といった現世的な悩みを抱え、孤独の中にあった。

創価学会は、この層に「現世利益」を説き、強力な相互扶助のネットワークを提供することで、彼らの「受け皿」となった。座談会などの活動を通じて、都市に「新しい村」とも言うべき共同体を再構築し、孤独な個人を組織化していったのである。この支持基盤は、同じく都市の労働者や貧困層をターゲットとしていた共産党と競合し、激しい対立を生んだ。

第二節:参政党が惹きつける「新しい中間層の不安」

では、現代の参政党支持者は、かつての創価学会支持者と同じなのだろうか。類似点と同時に、決定的な相違点が存在する。

参政党の支持者もまた、既存の共同体や政党から疎外された孤独な個人である点は共通している。彼らもまた、グローバル化や経済停滞の中で「何かを奪われている」という漠然とした喪失感を抱えている。参政党が提供する「学びの場」や地方組織の活動は、新たな繋がりを求める人々にとって、かつての創価学会が提供した「村」のような機能を持っている側面がある。

しかし、その社会経済的属性は異なる。参政党の支持者は、必ずしも経済的な「下層」ではない。SRA地域科学研究所の分析では「40〜50代の女性が多い」とされ、むしろ一定の教育を受け、スマホを使いこなす「中間層」が中心であるように見受けられる。

彼らの不安は、明日のパンに困るという経済的な貧困よりも、「食の安全」「子供の教育」「健康」といった、生活の質や将来に関わる、よりスピリチュアルで文化的な不安である。

創価学会が「経済的な救済」を約束する共同体であったとすれば、参政党は「情報と物語による精神的な救済」を提供するプラットフォームと言える。彼らは、既存メディアが伝えない「真実」を学び、国を取り戻すという「物語」を共有することで、自らの不安を解消し、アイデンティティを確立しようとしているのである。

この点で、両者は似て非なる存在であり、参政党は現代日本が抱える新しい形の「不安」を映し出す鏡となっている。

第5章:イデオロギーと現実──党と支持者の乖離

参政党の躍進を支える力は、その支持層の多様性にある。しかし、その多様性こそが、党の未来における深刻なリスク、すなわち「党の公式イデオロギーと、支持者が求めるものの乖離」を生み出している。

党執行部が掲げる国家主義的なイデオロギーと、多様な支持者が個々の関心事(食、健康など)から入ってくる現実との間には、深い溝が存在する。この「乖離」の構造を、具体的な政策を例に解き明かす。

OTC薬問題に見るイデオロギーの矛盾

この「乖離」と「矛盾」を象徴するのが、第2章でも触れた【OTC類似薬の保険適用除外】問題である。

直感的には、この「患者いじめ」とも言える政策は、健康への不安を抱える人々を、既存政党から参政党へと向かわせる絶好の追い風になるはずだ。参政党が「国民の健康を守る」と訴え、この3党合意を厳しく批判すれば、多くの支持を得られるだろう。

しかし、現実はより複雑である。なにしろ、参政党自身も、この「OTC類似薬の保険適用除外」を党の公約に掲げているからだ。

ここに、参政党が抱える根本的な矛盾が露呈する。なぜ、「身体の政治学」を掲げ、健康不安層を惹きつけてきたはずの党が、彼らの負担を激増させる政策を支持するのか。その理由は、党が持つ複数のイデオロギー側面を理解することで見えてくる。

  1. 「小さな政府」「自己責任」という思想:参政党のイデオロギーの根底には、国家による過度な介入を排し、個人の自立を促すリバタリアン(自由至上主義)的な思想がある。この立場からすれば、国民皆保険制度は「社会主義的」であり、個人の健康は本来、自分で管理すべき「自己責任」の領域となる。保険適用を外すことは、医療を国家の管理から「解放」し、個人の選択に委ねる、あるべき姿への一歩と映る。
  2. 反・既得権益(医療・製薬業界):彼らはこの政策を、「保険診療に依存し、不必要な薬や診察を繰り返すことで利益を得ている」と見なす医療業界や製薬業界への打撃と捉える。患者の負担増というデメリットよりも、巨大な既得権益を破壊するという「正義」を優先する。
  3. 財政保守・国家主義:「このままでは国民皆保険制度が破綻し、日本という国家がもたない」という危機感を煽り、制度維持のためには個人の負担増もやむを得ない、という「国家のため」の論理を持ち出す。これは「国守り」を掲げる彼らにとって、極めて親和性の高い理屈である。

このように、参政党は「OTC薬問題」を、患者負担の視点からではなく、「国家財政の健全化」「既得権益の打破」「個人の自立」という、より大きな物語の文脈で正当化するのである。

この政策は、参政党支持層に対する一種の「踏み絵」として機能する。党の国家観やイデオロギーを深く信奉する「コア信者」は、「国家のためなら仕方ない」「既得権益を壊すためだ」と、この政策を受け入れるだろう。

しかし、「我が子の薬代が上がるのは困る」という極めて現実的な動機で党を支持した「ライトな支持者」は、ここで初めて、党が掲げる「健康」という理念と、その政策がもたらす厳しい現実との間に横たわる、深い溝に気づかされる。

このOTC薬問題は、参政党の「イデオロギーの乖離」を最も象徴的に示すリトマス試験紙なのだ。党の成長は、今後、この溝をいかに糊塗し、あるいはライトな支持者を「教育」してコア信者へと転換させられるかにかかっている。

第6章:内部力学と時限爆弾──カリスマと新人議員の軋轢

党が抱えるもう一つの「時限爆弾」、それは「政治経験の乏しい新人議員」と「カリスマ的指導部」との間に予測される深刻な軋轢である。

2025年7月の参院選での躍進により、参政党からは多くの新人議員が誕生した。彼らの経歴は様々だが、国政レベルでの政治経験を持つ者は少ない。当選直後の彼らは「日本人ファースト」といった党のスローガンを忠実にSNSで発信し、党の方針に従う姿勢を見せている。

さらに、選挙後の国会活動を見ても、党の方向性は明確である。参政党の議員が提出した質問主意書は、「外国人土地取得規制」「教科書検定における近隣諸国条項」「LGBT理解増進法への懸念」「中国製太陽光パネルの安全保障リスク」「新型コロナワクチン接種の副反応」といったテーマに集中しており、党が掲げる反グローバリズム、伝統主義、安全保障強化、そして「身体の政治学」という核心的イデオロギーを忠実に実行に移している。

これに対する政府の答弁は、既存の法制度や専門家の評価に基づき現状を説明するものがほとんどであり、参政党が訴える「危機」と政府の「手続き的正当性」という、両者の認識の隔たりを浮き彫りにしている。

現時点では、新人議員は党の方針に沿った活動を行っており、執行部との目立った対立は見られない。しかし、これは党が野党である現状だからこそ保たれている結束かもしれない。今後、彼らが個々の選挙区の利害や、より現実的な政策実現の壁に直面したとき、この一枚岩の状態が維持できるかは未知数である。

  1. 政策の「純粋性」と「現実性」の対立:党の基本方針は、支持者にとっては絶対の教義だ。しかし、新人議員は国会で政策の現実性を厳しく追及される。彼らが「現実的な路線」を模索し始めれば、それは支持者から「裏切り」と見なされかねない。
  2. メディア戦略の対立:党の基本戦略は既存メディアを「敵」と見なす「アンダーグラウンド型」だ。しかし、国会議員は世論を喚起するために既存メディアとの関係構築も必要となる。これを「敵への懐柔」と捉える強硬な支持層との間に溝が生まれる可能性がある。
  3. 党の主導権争い:これまで党は神谷代表のカリスマによるトップダウンで運営されてきた。しかし、国会議員団が形成されれば、彼らは「国民の代表」という別の正統性を手に入れる。党の路線や資金をめぐる主導権争いが起きるのは、多くの新興政党が経験してきた道である。

この軋轢は、参政党の「成功」が生み出す必然的なジレンマだ。党が成長し、多様な人材を惹きつければ惹きつけるほど、創業者一人のカリスマで党をまとめ上げることは困難になる。

この党内に埋め込まれた時限爆弾を平和的に解除できるかどうかが、党の真の成熟度を測る最初の試練となるだろう。

終章:もし参政党が政権を取ったら──日本の未来、世界の分断

最後に、思考実験として「もし参政党が政権を担う日が来たら、日本はどう変わるのか」を、より詳細にシミュレーションする。

第一節:「最初の100日間」──日本を襲う衝撃

「神谷内閣」が発足したその日から、日本の政治風景は一変する。まず、財務省、外務省、厚生労働省、文部科学省といった主要官庁には、党の理念に忠実な人物か、あるいは既存の官僚機構を「破壊」することに躊躇のない民間人が、大臣や副大臣、政務官として送り込まれるだろう。

そして、矢継ぎ早に「最初の仕事」が断行される。総理による所信表明演説では、「戦後レジームからの脱却」と「真の日本の主権回復」が、高らかに宣言される。具体的な行動として、WHO(世界保健機関)のパンデミック条約からの脱退交渉開始を指示。中国共産党に対しては「人権侵害に対する、最も強い言葉での非難」声明を発表。文部科学省には、新たな歴史教科書検定基準の策定を命じる。

この「電撃作戦」は、国内の既存メディアや官僚、学術界から猛烈な批判を浴びるだろう。しかし、内閣と党は、SNSと独自の動画チャンネルを通じて「我々は、国民との約束を果たしているだけだ。抵抗しているのは、国を売り渡してきた古い支配層だ」と支持者に直接語りかけ、むしろその対立を、自らの正当性を強化する燃料へと変えていく。

永田町と霞が関は、かつてない混乱と熱狂に包まれる。

第二節:日本の作り変え──「国守り」の名の下の内政

長期的な政権運営において、日本社会は、その根幹から作り変えられていくだろう。

  • 経済:「財政規律」との決別:「財務省の支配」から脱却した政府は、MMT(現代貨幣理論)を事実上の国家方針とし、大規模な国債発行による財政出動を断行する。国内の食料自給率向上を至上命題とし、農家への手厚い補助金や、輸入食品への高い関税といった、強力な保護主義政策が打ち出される。経済は一時的に活性化するかもしれないが、やがて深刻なインフレと、国債の信認低下という巨大なリスクに直面する。
  • 社会・文化:「伝統」の公式化:教育現場では、「日本神話」や「伝統的な家族観」を教えることが義務化され、教科書は政府の望む歴史観を反映したものへと一変する。選択的夫婦別姓や同性婚の法制化といった動きは完全に停止し、「ジェンダーフリー」という言葉は公の場から姿を消す。食品添加物や農薬、医薬品に関する安全基準は、国際的な基準から離れ、国独自の「食養生」に近い思想に基づいて再編される。社会の「文化戦争」は日常的な風景となり、賛同しない国民は「反日的」というレッテルを貼られ、社会の分断は決定的なものとなる。
第三節:「孤高の日本」──外交・安全保障の激変

外交方針の転換は、世界を驚かせることになる。

  • 中国との関係:対中国政策は、「対話」から「対決」へと完全に舵が切られる。経済的なデカップリング(切り離し)が推進され、国内の中国人留学生や労働者に対する監視も強化される。台湾有事の際には、アメリカの意向を超えて、独自の防衛行動をとる可能性も示唆し、東アジアはかつてない緊張状態に陥る。
  • 日米同盟の変質:同盟関係そのものは維持しつつも、「アメリカの言いなりにはならない」という「自主防衛」の旗印の下、在日米軍基地の縮小や、より対等な地位協定への改定を強く要求する。これにより、日米関係は安定した同盟から、常に緊張をはらんだ、取引的な関係へと変質していく。
  • 国際社会からの孤立:WHOだけでなく、国連人権理事会など、国家主権を制約すると見なした国際機関や条約からは、次々と距離を置くようになる。日本は、国際協調の優等生から、「自国の利益」を最優先する、誇り高くも、孤立した国家「孤高の日本」へと変貌を遂げる。

この未来予想図は、ある人々にとっては理想郷に、またある人々にとっては悪夢に映るだろう。重要なのは、これが現代日本社会の「土壌」から生まれた、論理的な帰結の一つなのである。

参政党は、これらの国民の不安や渇望を誰よりも巧みに掬い上げ、一つの鮮明な「処方箋」として提示した。彼らが「鏡」だとすれば、そこに映し出されているのは、グローバル化の波の中で、自らが進むべき道を見失い、分断され、揺れ動いている、私たち自身の姿に他ならない。

この鏡に映った自画像と、私たちはどう向き合うのか。その重い問いに答える責任は、今、私たち一人ひとりにある。


編集部より:この記事は島田裕巳氏のnote 2025年7月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は島田裕巳氏のnoteをご覧ください。