トランプとBRICSが担う世界秩序の本質:『地政学理論で読む多極化する世界』

多極化する世界への転換

冷戦の終結以降、世界は「自由民主主義の勝利」とともに、民主化・人権・自由貿易といった普遍的価値が世界中に広がるという見通しを持っていた。しかし近年、そのような楽観的な世界観は後退しつつある。代わって浮上してきたのが、「多極化」という新たな潮流だ。

この「多極化」とは、単にアメリカの影響力が相対的に低下したというだけではない。世界の各地域に、それぞれ独自の秩序や価値観を持つ「極」が形成され、アメリカや欧州による一極的な支配構造がほころびつつある状況を意味する。篠田英朗『地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦』では二つの動き――トランプ政権の登場とBRICSの台頭――に注目する。

トランプ政権の戦略的転換

ドナルド・トランプは、「アメリカ・ファースト」を掲げ、国際協調ではなく自国の国益を最優先に掲げた。彼の政策は、反移民・反多様性、同盟国軽視、高率関税導入など、従来のアメリカ外交とは一線を画すものだった。

この転換は、単なる一政治家の特異性ではなく、アメリカの相対的な国力低下を背景としたものだった。「再び偉大なアメリカ(MAGA)」というスローガンに象徴されるように、アメリカはかつての覇権国としての地位を維持できなくなり、むしろ「多極化する世界」の一極として生き残るための戦略を模索し始めている。

トランプ大統領 ホワイトハウスXより

BRICSの台頭と拡大

一方で、BRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)は、その人口規模、経済成長、資源の豊富さを背景に、急速に影響力を高めている。特にインドと中国は、GDP成長率で世界をリードし、購買力平価ベースのGDPではすでにG7を上回っている。

2022年以降、BRICSは拡大路線に転じ、多数の新興国が加盟を申請し、新たなパートナー国も加わっている。これは、欧米主導の国際秩序が揺らぎ、新しい秩序を求める動きが世界中で高まっている証拠だ。

BRICSの魅力は、もはや「新興国クラブ」ではなく、「新たな大国クラブ」としての求心力を持っている点にある。かつてのように欧米の老舗大国が中心ではなく、急成長を遂げる非欧米諸国が、国際政治の中心に浮上しつつある。

モディ首相インスタグラムより

脱ドル化と国際金融秩序への挑戦

BRICSの戦略の中でも重要な柱が「脱ドル化」である。アメリカが持つ基軸通貨ドルの地位は、国際金融制裁の強力な武器ともなってきた。しかし、ロシアや中国、インドは、相互貿易の中でドルを使わない決済体制を拡大し、独自の金融ネットワークを築こうとしている。

この動きは、アメリカによる一方的な制裁に対抗する実利的な対応であり、単なる反米感情ではなく、国際経済における権力構造そのものに挑戦する試みである。脱ドル化は、まさに「多極化する世界」における通貨戦略の一環として位置づけられる。

地政学理論で読み解く構造転換

本書の特徴は、こうした国際構造の変化を、地政学理論の観点から読み解いている点にある。著者は「英米系」と「大陸系」という二つの地政学的世界観を軸に、現代の国際秩序を分析する。

「英米系」は、海洋国家を中心に普遍主義とグローバル化を推進してきた理論であり、アメリカはこの系譜に属していた。これに対し、「大陸系」は、文明圏や地域の独自性を重視し、多極的な構造を前提とする思想である。BRICS諸国はこの「大陸系」地政学の立場にあり、そしてトランプ政権のアメリカもまた、結果的にこの構造に近い政策を採るようになった。

冷戦後から多極化へ:不可逆的な変化

本書が示す最大のポイントは、「多極化」は一時的な現象ではなく、構造的で不可逆的な変化であるということだ。冷戦期のような明確な二極対立ではなく、複数の強国が相互に干渉し、時に競合しながら勢力を拡大する。しかも、そこにはかつてのようなイデオロギー的な明確な境界線は存在しない。

アメリカや中国でさえ、世界的な価値観や連帯よりも、自国の経済的・政治的利益を重視するようになり、同盟の優先順位も曖昧になりつつある。国際秩序は、より柔軟で、より不安定な「多極化構造」へと移行している。

本書の意義

『地政学理論で読む多極化する世界』は、表層的なニュースの羅列では捉えきれない国際秩序の大変動を、理論的かつ戦略的に整理する一冊である。とくに、BRICSの拡大や脱ドル化の動き、トランプ現象といった一見バラバラに見える出来事を、「多極化」というキーワードで一貫して分析している点が秀逸だ。

また、「英米系」と「大陸系」という二つの地政学理論の視点を導入することで、単なる国際関係論にとどまらない深みを持たせており、現代世界を読み解く上で極めて有益な視座を提供している。

国際政治や地政学に関心を持つ読者だけでなく、現代世界の構造的変化に関心があるすべての人にとって、重要な知見を与えてくれる良書である。


地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦