幻となった石破氏の「戦後80年談話」

千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝する石破首相
首相官邸HPより

このひと月ほど筆者は、結局は「見解」も出さず、現時点(9月6日午前)では歴史に「未曾有の醜態」だけを残しそうな石破総理総裁の「戦後80年談話」について書くブログに備えて、村山氏の「60談話」や安倍氏の「70年談話」、そしてヴァイツゼッカーの「荒れ野の40年」などを読み返していた。

そんな中、阿比留瑠比記者の筆と思しき8月16日の<産経抄>が、「石破戦後80年『見解』で謝罪外交復活は勘弁」との見出しで、こう記した。

当時の安倍晋三首相が戦後70年談話を発表する記者会見に臨む40~50分前だったか。抄子は突然、首相官邸5階にある首相執務室に呼び出された。2人きりになると、安倍氏は安倍談話の全文を抄子に手渡し、切り出した。「戦後の謝罪外交に、終止符を打ちたい」。

そして、西ドイツのワイツゼッカー大統領が敗戦40年の1985年に行った有名な演説「荒れ野の40年」の次の抜粋部分を示した。「自らが手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません」。安倍氏は、真剣な面持ちでこう説明した。「談話はこの演説を下書きにした」。

こんな偶然があるのか、と思った。というのも筆者が石破氏の「80年談話」に備えてヴァイツゼッカー演説を読み返したのは、安倍談話を半年遡る15年2月、「ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領死去に寄せて思うこと」と題した3300余字ほどの初エッセイを書いていたからだ。

前年の14年3月に40年の宮仕えを終えて、台湾や朝鮮、そして戦前・戦後の出来事などを勉強し始めてまだ1年も経っていない時に、以下のエッセイを書こうと思ったきっかけは、1月末のヴァイツゼッカー氏死去の報だった。94歳だった。

ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領死去に寄せて思うこと(2015.2.12)

ヴァイツゼッカー元ドイツ大統領が、1月31日、94歳で亡くなった。

各メディアは「荒れ野の40年」と題された1985年の演説の良く知られた一節、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」を取り上げて報じた。この機会に演説全文を読んでみて、以前から感じていたその論理構成への違和感を再認識したので、思うところを書く。

人口に膾炙し、隣の国の大統領の十八番でもあるこの一節が「言わずもがな」だなあと感じていたことは措いて、私が気になるのは、「民族全体に罪がある、もしくは無実である、と言う様なことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」と言う一節だ。

またヴァイツゼッカーはこの演説で、まるで他人事の様に、主語を省いた受動態表現を多用する。「強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人」とか「虐殺されたジィンティ・ロマ」と言った具合に。「ドイツが命を奪った」とか「ドイツが虐殺した」と言う様な能動的表現は決して用いない。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と、述べた村山談話のその見事なまで能動態とは対照的だ。その当否と、戦後その恩恵で独立を果たした、中国・韓国以外の東南アジア諸国まで十把一絡げしている不適切さは、ここでは措く。

ヴ演説は次の様にも言う。「暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公の場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としました。(中略)ユダヤ人を人種として悉く抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数でした。公の目には触れないようになっていました。」

この後に冒頭の一節が続く訳だが、そこにある種の「割り切り」を私は感じる。割り切ってしまえば、過去に目を閉ざさないことは難しいことではない。だが、日本人にはこの「割り切り」が出来ない。多くの日本人が未だに中国・韓国に責められながらも口をつぐむ理由はここにある。東京裁判史観に縛られ続けているのだと思う。戦勝国の意図とは違う形で、だが。

ヴァイツゼッカーとドイツ国民のこの割り切りは、精神医学者であり実存主義哲学者であるカール・ヤスパースの『戦争の罪を問う』(1946)に淵源を置く。ヤスパースは、ニュルンベルグ裁判は「刑事裁判」で、「特定の個人を罰するのであり、集団的に民族を弾劾する訳ではない」とし、戦争指導者たちと国民とを峻別した。

ヤスパースは戦争指導者たちの犯罪を4つ、即ち「刑法上の罪」、「政治上の罪」、「道徳上の罪」、「形而上的な罪」に区別し、その主眼を「罪」と「民族全体」との関係に置いた。例えば、刑事上の罪は個人が負うものであり「民族」が負うものではない、また道徳上の罪も個人が負うものであり「民族」が負うことはそもそも不合理である、とした。

ヤスパースの議論では、罪は「民族」が背負うものではなく、「集団を有罪と断言」することは不可能であり、ドイツ国民が背負うのはあくまでも敗戦国の国民としてであって、民族としての存在そのものが弾劾されることは、むしろナチスの民族大虐殺と同じ考え方に立つものであり、およそ受け入れられないとする。実に巧みだ。

靖国問題での中国の言い分も、この戦争指導者と国民を分ける考え方に近い。悪いのは日本の戦争指導者、即ちA級戦犯であり、日本国民はむしろその被害者で、国民に罪はない。だからA級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝することは、先の戦争の罪を否定し、戦争を肯定することだと。だがこの考え方に日本人、少なくとも私は立たない。何故か。

ニュルンベルク裁判では、被告人の多くがヒトラーに罪を擦り付けて被害者を装った。他方、東京裁判では、多くの被告人は自らの刑は二の次で、主たる関心事は国体の護持にあった。BC級裁判でも国を恨むことなく、部下の助命に奔走し、静かに刑に服した。天皇や東條などに罪を擦り付けた被告人もいない。またその主張は、戦争は国際法に基づいたものであり、もし罪があるとすればそれは負けたことにある、と至極真っ当だ。

戦勝国の意図と違う東京裁判史観、と先に書いた。国体護持の認識は戦勝国側にもあったので、天皇に触らずに被告人のみに罪を負わせようとした。ところがその天皇が「責任の一切は自分にある」とマッカーサーに一命を差し出してしまった。国民は国民で、全員が粛々と戦争の罪を負った。誰も表向きは被告人や天皇に罪を被せようとはしなかった。この反応には戦勝国も驚いたろう。

戦犯赦免もその証左の一つだ。1951年9月のサンフランシスコ条約第11条に東京裁判の被告人取扱条項がある。締結後に戦犯赦免を求める国民運動が高まり、4千万人もの署名が集まった。政府は、社会党や共産党も含めた全会一致の国会決議を経て、同条に基づいて旧連合国に対し全戦犯の赦免・減刑勧告を行った。かくて戦犯は赦免され、刑死者も法務死扱いとなった。

ドイツと日本のこの彼我の差の主因は何か。ニュルンベルグの被告らにあっては、ホロコーストが余りに非人間的で残忍であったためその責任を自らの良心に照らし認めたくなかった、一方、東京裁判の被告人には、戦争目的としての宣戦詔書と行動規範としての軍人勅諭があり、何より畏敬する天皇の赤子としての自覚があったことにある、と私は考える。

1900年、北清事変に向かうドイツ将兵に向けたカイザー・ウィルヘルム二世の勅語しはこうある。「汝らは、我らが受けた非道に対して報復せよ。心に銘記せよ、敵を容赦するな、一人とて捕虜とはせずに汝らの武器を振るえ。ドイツ皇帝の鉄拳を示してやれ」。要するに、皆殺しにしろと言う訳だ。公使ケテラーが義和団に殺されたとは言え、ヒトラーの憎悪同様に異人種や異教徒に対する白人キリスト教徒の本音が滲む。

さて、その東京裁判でインドのパル判事は、膨大な資料分析した上での判決で、戦争は国際法上犯罪でないこと、戦勝国のみが裁く側にいること、事後法に基づくものであること、などを理由に、裁判自体が不当であるとして被告人全員の無罪を主張した。裁判を主催したマッカーサーも、後に米国議会においてあの戦争は日本の自衛戦争であり、東京裁判は間違っていたと証言した。

この様にドイツと日本があの時代に起こした戦争は、その目的や内容において大きな相違があるばかりでなく、戦後処理の仕方も大きく異なる。ドイツはドイツらしく、日本は日本らしい。ただ戦後70年を経過した今日、ドイツの過去を何かにつけ蒸し返すような国も国民もないが、日本の過去は未だに蒸し返し続けられている。

その理由の一つにヴァイツゼッカー演説の皮相な理解があることは否めない。だがその真の背景は、人種差別と宗教戦争、大航海時代以降の白人キリスト教勢力による南北アメリカ、アフリカ、アジアにおける植民地政策、欧州の産業革命とそれに引き続く帝国主義、及びその流れの中で、有色人種国家として唯一独立を保ち、明治維新を経て列強入りした日本への蔑みや怨嗟などがあるが、ここでは措く。

日本は今後も、敗戦の責任を天皇が国民と共に負い、国民も天皇と共にそれを負い続けることが必要だ。が、同時に先の戦争に至るまでの長い歴史的背景や東京裁判の不法性などは改めて検証されるべきである。また国際社会は、国際法に悖る戦争犯罪はその事実に向き合って反省しなければならない

戦後70年を迎える日本にとって、このことにこそ、ヴァイツゼッカー演説の「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」の一節が当て嵌まる、と私は思う。

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<産経抄>は、「演説の抜粋部分は、実際の安倍談話ではこう記されている。『あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』」と。安倍氏もヴァイツゼッカーに劣らず「実に巧みだ」と筆者は思う。

それは、安倍氏が『回顧録』で、「談話」の4ヵ月前に開かれたバンドン会議の演説では「侵略や武力行使によって他国の政治的独立を侵さない、という原則を、私たちが侵略したかどうかではなく、世界がそう決意している、という言い方で触れたのです」とする辺り、即ち、一人称の能動態を使わないところだ。

バンドン会議演説から1週間経った15年4月29日、米上下両院合同会議で行った「希望の同盟へ」演説で議員の拍手喝采を得た安倍氏は、「70年談話」に向けて2月に設けた「21世紀構想懇談会」について『回想録』にはこう記されている。

私を支持してくれる保守派の人たちは、常に100満点を求めてきますが、そんなことは政治の世界では無理なんですよ。だからある程度バランスをとるために、21世紀構想懇談会を設立して、有識者の意見を聞いたのです。

と述べて、座長代理に据えた北岡伸一氏の立ち位置をさらりと示唆する辺りも安倍氏らしい。つまり、何をするにも、また語るにも「実に巧み」なのである。だから、筆者のように「東京裁判の不法性」などとは軽々に口にしない代わりに、「戦後レジームからの脱却」とするのである。

他方、幻となった「80年談話」で石破氏は、全国戦没者追悼式で述べた「あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばならない」との下りを使ったことだろう。とすると、80年前の「あの戦争」は石破氏にとって「国際法に悖る戦争犯罪」だったのか、と筆者は思うのである。