一度権力を握ると止められなくなる、これを否定することは難しいと思います。
プーチン、ネタニヤフ、習近平、マクロン…。それだけではありません。独裁が長い人には例えばベラルーシのルカシェンコ大統領の就任は1994年だし、北朝鮮は金家によって統治されています。苦境ながらも粘るベネズエラのマドゥロ大統領も2013年からしがみついています。カメルーンのビヤ大統領に至っては就任したのは1982年。現在92歳になるも10月の改選で8期目再選を目指します。
では日本を見てみましょう。先般退陣を表明した石破首相は「地位にしがみつくつもりは全くない」と述べていますが、それは辞めた時のセリフなので何とでも言えます。世の中がざわつく中、うまく残ったのが兵庫県の齋藤元彦知事。一方、伊東市の田久保眞紀市長に至っては開き直りでしがみつく姿がありありと見えています。かつて無免許人身事故で離職勧告を2度も受けた元都議の木下登美子氏はようやく離職した後、有罪となり、今ようやく執行猶予が取れるところかと思います。

石破首相 首相官邸HPより
これは政治家に限ったことではありません。経営者にも当然そういうことは起こりうるわけですが、経営者の場合は政治家ほどの議論が起こりにくいこともあり、話題になりにくいことは確かです。例えばキャノンの御手洗冨士夫氏は1995年に同社社長になって紆余曲折するも結局現在も社長をしています。同族会社ゆえの事態でありますが、いわゆる創業者は「適任者がいない」と言って社長に長く君臨するケースが目立ちます。また雇われ社長でも権力の座を転々とする人もいます。先般話題になった新浪剛史氏がサントリー会長を辞任した時は驚きましたが、経済同友会のトップを辞めるつもりは当初はなかったように見受けられます。「この俺様がなんで?」ということだったのかと思います。そのあと続々と出た醜聞に「人の評価は作るのに30年、壊すのに3日」でありました。
権力を握るとなぜ傲慢になるのでしょうか?
私が雇われ社長から自分の会社の本当の社長になった時に思ったことは今でも全てを言い表している気がします。それは
「社長は屏風なんだよ!」
私の屏風は吹けば飛ぶようなペラペラな安っぽい屏風でした。雇われ社長の時は金屏風ではないにしろ、もっとしっかりしていました。なぜなら私がダメならいくらでも代替があったのです。ですが、自分の会社になった途端、そう簡単には代替は効きません。ようやくつかんだ自分の会社の社長の座も風が吹いて屏風が倒れれば一瞬にして終わるのです。
私ごときと国家の首長を比べるのはおぞましいのですが、本質は似ていてます。それは「トップの上はない」のであります。ならばそのポジションを利用して最大限の虚勢を張り、延命策を取らねばあとは死を待つのみであります。この場合の死とは政治生命、経営者人生といった君臨した最高の水準からの決別であります。つまりトップより上の地位はなく、引きずりおろされれば果てしなく下界まで落ちるのが概ね世の常だからでしょう。
例外もあります。マレーシアのマハディール氏は首相を経験して下野、その後、93歳で再度首相になっています。トランプ氏も同様。麻生太郎氏のように首相後、財務大臣やら副首相といった要職にずっとついているケースも珍しいパタンだと思います。
ゼレンスキー氏はなぜ自分の国の大統領選を実行しないのか、私が小説家のような想像力を働かせれれば暗殺の危機、つまり本当の死と背中合わせなのではないか、と感じています。今は政権中枢や軍が全てゼレンスキー氏の指揮系統下に入り、自らの意思の通りに動きます。自らのセキュリティも自分で決められます。しかし、いったん下野すれば「ただの人」とまでは言わずとも大きなリスクを背負うのです。
独裁政権が崩れた瞬間、その独裁者は逃亡人生に変わります。最近ではバングラディシュのシェイク ハシナ氏が通算20年も同国のトップにいたのに政権崩壊後、インドに逃亡しました。
権力は魔物であるとともにそれ以上、上がないという事実もあります。そこを手放せばただの人になる、それが権力者であればあるほどそのギャップは計り知れないほど大きなものになるのです。
大企業の社長や役員をしていて退任後、しばらくは「過去の栄光」話に自分で酔いしれている方もいらっしゃいます。凡人にはわからないそのギャップ感こそが魔物なのではないでしょうか?
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年9月19日の記事より転載させていただきました。






