グローバルとインターナショナルは本質的に異なる。インターナショナルは、字義としては、国家と国家の関係だが、実際には、一つの国家を中心にして、その国家と他の国家との関係を意味している。それに対して、グローバルは、字義通り、国家を超えた地球という次元にあるものである。

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近代市民社会の成立は、国民国家の成立によって画される。人類の歴史は、暴力による支配の歴史だが、国民国家の成立は、少なくとも国内における理性の支配を実現し、暴力による支配を否定する。しかし、かえって、戦争という国家間の暴力の行使を正当化させてきたのである。
グローバル化は、歴史の進歩であり、人類の叡智の進展であり、理性の創造的な自己展開なのであって、最終的に、地球の上に、一つの世界市民社会を成立させ、理性の支配を実現し、暴力による支配を廃絶するはずである。いかに遠かろうとも、その日は必ずくるのである。
グローバルは、端的に人と人との関係である。日本企業がアメリカの顧客に商品を売るというのは、インターナショナルな発想である。グローバルな発想では、単に一企業が一顧客に商品を売るだけのことである。グローバル化とは、そうした発想の転換でなければならない。
アメリカ国家の強大な軍事力を背景にして、アメリカ企業が多国籍展開できているのだとしたら、それはグローバルではない。アメリカ企業は、純粋に事業の合理性のみに基づいて、多国籍企業としてではなく、ましてやアメリカ企業としてではなく、無国籍企業として、世界展開できてこそ、真のグローバルである。グローバル化とは、そうした力の支配から、理性の支配への転換でなければならない。
理念としては、グローバルは、社会哲学の地平にある。しかし、そういうことは、逆に、いかに現実社会がグローバルでないかを物語る。代表例がオリンピックである。本当は、真にグローバルなスポーツの祭典でなくてはいけないのに、実際には、競技の仕組みも、開催地の選定も、国家と国家の競争関係になっている。
オリンピック運営の背後にある哲学は、真にグローバルなものであるはずだが、現実の運営は、著しく錯綜したインターナショナルな政治的利害の対立である。むしろ、グローバル経済活動のほうが真にグローバルな協調と相互理解に支えられている。それは、おそらくは、経済活動のなかに、経済の合理性という普遍性が潜むからである。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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