黒坂岳央です。
なんのデータもない、単なる肌感覚なのだが、最近世の中に「子供みたいな幼稚な大人」が増えたように感じる。彼らの人間性を一言で表すなら「周囲に親の代わりをさせている」に尽きる。だから記事タイトルには「子供みたいな」と入れた。
若い人に甘えの姿勢が見られるのは微笑ましい。そこから大きな成長も期待できるだろう。問題は30代以降のいい大人になって、親離れはしたものの、甘えの対象を職場・友人・パートナーに乗り換えただけの人間が一定数存在することだ。30代でこうなると、誰も何も言わない。彼らは一生そのまま固定ルートになる。
個人的な独断と偏見で特徴を取り上げたい。

Mlenny/IStock
感情を「無編集」で出力する
大人と子供の最も本質的な違いとは、「表現する前に一歩踏みとどまるかどうか」だと思っている。子供は感じたことをそのまま出す。無邪気、素直ゆえの残酷な言葉が出ることがある。だが周囲は苦笑まじりでそれを許す。子供は許される。
だが大人には感情を編集する能力と責任が求められる。不機嫌な顔をそのまま職場に持ち込んで周囲に機嫌を取らせる。また、気に入らないことがあると黙り込んでイライラを態度で周囲に伝える。
これらはすべて「自分がスッキリするためのコストを周囲に払わせる行為」である。本人は感情を発散してスッキリするかもしれないが、周囲はその感情処理を強制的に引き受けさせられている。非常に迷惑な話だ。
親は子供の感情爆発を受け止めるのが役割だ。筆者も毎日、息子や娘の感情労働に走り回っている。だが、さすがに30を超えた大人を相手にそれをする気はない。いや、年齢に関係なく、そもそも赤の他人である同僚や部下、パートナーに子守をする役割はないはずだ。
「やりたくない」を仕事の断り理由にする
最近はどこもかしこもホワイト企業が増え、少子高齢化で相対的に会社のパワーバランスが弱い傾向にある。そうなると一部は勘違いし始める。従業員の立場でありながら、まるでお客様のような感覚の人がいるのだ。
労働とは契約である。会社は給与を支払い、従業員は労務サービスを提供する。それにもかかわらず「これ、やりたくありません」と平然と口にして仕事を断る大人がいる。やりたくないといいながら、給与やボーナスを受け取るのは矛盾している。賃金と労務サービスの等価交換になっていない。
たとえると、「食べた料理に満足しなかったので代金を払いたくない」と言い張るクレーマーと構造的に同じである。米国のAt-will employment、つまり雇用者が理由なく解雇できる制度下では、こうした態度は職を失うリスクと直結する。だが日本は解雇規制が厳しく、人手不足なので渋々上司が部下のわがままを聞いているケースも少なくない。だが本来はおかしい話だ。真面目に働いている人が割りを食っている。
子供は親に対して「これ嫌い、やらない、やる気がない」が許される。親はそれを受け止め、なだめ、時に折れることもある。
ところが大の大人で給与をもらっているのに仕事を選ぶ。プロフェッショナリズムの欠如というより、契約概念そのものが理解できていないと見るのが正確な表現だろう。
承認欲求が自分本位
昨今、承認欲求はダメだと言わんばかりの風潮である。だが、本来、承認欲求は本能であり、それ自体を批判するのはナンセンスだ。自分にも当然承認欲求はある。問題はその「質」と「ベクトル」にある。
健全な承認欲求はベクトルが「外」に向いている。学業、ビジネス、スポーツで社会に価値を提供し、その結果として評価を得る。この構造では承認欲求が自己成長と同じ方向を向いているので、周囲も自分もWin-Winの関係になる。
筆者の場合、人の役に立つ仕事をして感謝されることが身近な承認欲求の消化方法だと考えている。だからできるだけ喜ばれる仕事を目指し、相手から自然発生的な「ありがとう」を糧にさらに仕事を頑張るようにしている。
一方、幼稚な承認欲求はベクトルが100%自分に向いている。SNSで稚拙な自慢を投稿し、いいねの数で自己肯定感を求める。20代前半ならまだ成長過程として許容範囲だろう。だが30を超えてこれをやっている人間は、見る側に「その年齢にもなって、まだ学生レベルで止まっているのか」という失笑を買うだけで実質的メリットがない。
子供は親に「見て見て」と言う。親はそれを無条件に肯定する。うちの子供も描いた絵を見てくれと言ってくるので、笑顔で「うまいね!」と返している。だが、誰しも少しずつ自分本位の承認欲求から、健全で利他的な形での承認欲求で消費するコースを目指す。いつまでも承認欲求ゾンビはみっともないと思うのだ。
責任を取らない
大人と子どもの違いは「責任を取れるかどうか」で定義できる。自分名義のクレジットカードが作れるのは、大人になると責任を取れるから、で説明ができる。ところがいい年になっても責任を取らない人は意外といる。
彼らは謝れない。ミスをしても素直に謝罪せず、逆ギレで返す。あるいは謝っても必ず「でも相手も悪い」を付け足す。謝罪とは自分の非を認める行為であり、恥をかくという形で責任を取る行為だ。ところが幼稚な人は攻撃をして責任を取ることから逃げる。
そして彼らはポジションを取らない。何か意見を求められると「人それぞれ」で返す。一見、寛容で成熟した態度に見えるが実態は逆だ。ポジションを取るには知的コストと批判リスクを伴う。それを回避するために多様性や人それぞれという便利な言葉で思考停止している。意見がないのではなく、不勉強を晒すという責任を取りたくないだけだ。
さらに彼らは挑戦しない。責任を負いたくないから最初から動かない。挑戦しなければ失敗しない、という消極的な安全地帯に留まり続ける。親がいれば失敗しても守ってもらえた。しかし大人になれば失敗のコストは自分で引き受けるしかない。それができない。
極めつけは、うまくいかないことを国や社会のせいにする責任転嫁だ。自分の現状の原因を外部に求めれば、自己変革の必要性がゼロになる。思考停止の最も楽な形態である。国が悪い、社会が悪い、親が悪い。彼らは周囲の人間に責任を押し付ける。
◇
大小あれ、大人になるということは周囲のために自分は多少の我慢をするものである。だが彼らは子どものまま大きくなっているので、それが出来ない。ここでは実年齢は関係ない。40代でも50代でも、このコストを外部化し続ける人間は一生子供のまま老化していくのだ。
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