「人的資本経営」という言葉が、日本のビジネス界に急速に広がった。有価証券報告書等におけるサステナビリティ情報の開示拡充を契機に、多くの企業がエンゲージメント調査、1on1、人材データの可視化などに取り組んでいる。
一方で、現場の経営者や人事責任者からは、「制度を整え、数値を測定しているのに、社員の主体性や定着に思うようにつながらない」という声も聞こえてくる。人的資本経営は広がったものの、その実装に悩む企業は少なくないのではないか。
なぜ、制度を整えても組織の変化につながりにくいのか。
一つの理由は、人材を「管理・測定すべき資本」として外側から捉える一方で、その人が何に価値を感じ、どこで力を発揮するのかという内側の設計が、十分に言語化されていないことにあるように思う。

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制度だけでは説明できない違和感
多くの企業には、ミッション、ビジョン、バリュー(MVV)が掲げられている。しかし、それが社員一人ひとりの日々の行動規範として機能しているかというと、必ずしもそうとは言い切れない。
例えば、企業がバリューに「挑戦」を掲げているとする。一見すると分かりやすい言葉だが、社員にとっての「挑戦」の意味は一様ではない。ある社員にとっては「高い売上目標を達成すること」かもしれない。別の社員にとっては「新技術を深めること」や「一人の顧客に粘り強く寄り添うこと」かもしれない。
この個人の解釈と企業の意図の接点が言語化されないままだと、社員の中には「会社の言っていることは分かる。しかし、自分がここで働く意味までは見えない」という感覚が残る。
「人間関係も居心地も悪くない。それでも、若手や中核社員が定着しない」と悩む企業では、給与や福利厚生といった条件面だけでなく、「ここで自分の価値観を発揮する理由」が企業のバリューと結びついているかを見直す余地があるのではないか。
価値観の接点がない組織
人的資本経営の本質は、人材を単なる測定対象として管理することだけではない。その人が持つ独自の価値観と、自然に力を発揮しやすい固有の領域を、企業のバリューや事業目的と接続し、発揮できる状態をつくることにある。
人的資本を活かすとは、単に「営業力が高い」「技術力がある」といった表面的な能力を見ることではない。「その能力が、なぜ、どのような動機で発揮されるのか」という根源を見極めることでもある。
同じ営業力の高い人材であっても、「競合に勝つこと」に価値を感じる人と、「相手の複雑な課題を整理すること」に価値を感じる人とでは、力を発揮する場面も、企業バリューとの響き合い方も異なる。個人の根源的な動機と、企業の目指す方向性を接続することが、人的資本を活かすうえで重要になる。
組織と個人の関係性を考えるとき、しばしば「会社の方針」と「社員の希望」が対立しているように見えることがある。
たとえば、会社は「山」へ行きたいと考え、社員は「海」へ行きたいと感じているような状態だ。
このとき、多くの経営者は、社員を説得して会社の方針に合わせるか、社員の希望に配慮して妥協するかという二者択一に悩む。
しかし、双方が「なぜそこに行きたいのか」という深い価値観を言語化すると、違う景色が見えてくる。会社が山に行きたい理由が「挑戦」や「成長」であり、社員が海に行きたい理由が「自由」や「開放感」であれば、双方の価値観が満たされる「湖に行く」という第三の選択肢が見えてくるかもしれない。
湖には山もあり、水辺の開放感もある。会社の目指す挑戦と、個人の求める自由が同時に満たされる可能性があるのだ。
これは単なる妥協ではない。企業と個人の価値観を深く見つめたうえで、双方が力を発揮できる接点を見つけるということである。
働く意味は接点から生まれる
人的資本経営に必要なのは、企業の方針に社員を無理に従わせることでも、社員の希望をすべて受け入れることでもない。企業バリューと個人の価値観が同時に満たされる接点を、対話を通じて見つけ、言語化することではないだろうか。
人的資本経営を、開示項目や人事制度の整備だけで捉えると、現場では形だけになりやすい。現行施策や計測可能な数値を並べるだけでは総花的になりがちであり、重要なのは、企業の経営判断の軸と、社員が何に価値を感じて動いているのかを具体的な言葉にすることだ。
社員が自分の価値観と企業バリューの接点を理解できたとき、仕事は単なる役割ではなく、自分の力を発揮する具体的な場になっていく。
人的資本経営の次の課題は、測定や開示に加えて、「企業と個人の価値観が重なる場所」を言語化し、働く意味へと接続することではないだろうか。
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佐藤 裕(さとう ゆたか)
味語り®代表/ブランド設計士。20年超の企業経営経験を活かし、企業と個人の「価値観の接点」を言語化。理念を現場の判断軸へ落とし込むブランド設計に伴走している。







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