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AIが書いた文章を見破ります――そんな見出しの記事が話題を集めている。大学のレポートや論文を念頭に、文章の「人間らしさ」を解析して生成AIによるものを判定するという。

だが、この話を「便利な検出ツールが出た」で片付けてはいけない。問いの立て方そのものが、すでにずれているからだ。
記事で取り上げられた大阪発のサービス「Puddin AI」は、興味深い転換をしている。開発者は当初、既存のAI検出ツールを調べ尽くしたうえで、その誤判定の多さに限界を感じたという。
整いすぎた文章を書く善良な学生まで「AIだ」と疑ってしまうからだ。そこで発想を「見破る」から「最初から証明する」へ切り替えた。
キーストロークなど書く過程そのものを記録し、「これはこの人が、この瞬間に書いた」と担保する。出来あがった文章を判定するのではなく、書く行為の痕跡を残す方式である。
注目すべきは、この最も知見のある当事者ですら、出力された文章だけを眺めて人間かAIかを言い当てる勝負からは、すでに降りているという事実だ。文章の見た目で真贋を判定する道は、思いのほか分が悪い。
もちろん検出技術に意味がないわけではない。本人証明や不正抑止の役割は残る。だが、それだけで教育を守れると考えるなら、話は別だ。
新しい検出が出れば、それをかいくぐる生成が出る。いたちごっこは終わらない。出力の見た目だけで攻防を続けるかぎり、それは古い評価方法を守るための軍拡競争にすぎない。
ここに問題の核心がある。ある人がこう書いていた。AIを禁止するより、課題自体を使い手の知識や思考力が要るものにすべきだ、と。AIコピペで済む課題は、AIコピペで済む時点で人間がやる意味を失っている。社会がそれを求めていないからだ。
別の人はこう続ける。学生がAIを使うからと検出システムを作るのは、「レポート提出」という従来の手法を温存したままAIに対抗しているだけではないか、と。発表、口頭試問、討論、実習――理解を本当に確かめる方法は、いくらでもある。
私もまったく同感だ。そもそもAIによる資料生成は、これから当たり前になる。禁じても始まらない。ならば問うべきは「これはAIか」ではない。「この人は本当に分かっているか」である。評価する側が問いを取り違えているかぎり、どれほど高精度の検出器を導入しても、教育は一歩も前に進まない。
では、AIを使ってなお人にしか書けないものとは何か。文章生成を一般化させたのは教育の現場だけではない。同じ地殻変動が、いま書籍の世界でも起きている。
(後編に続く)
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)
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